僕は映画狂、というより、映画を語りたい今日

もしかすると、映画そのものよりも映画館の暗闇のほうが好きかもしれない。

すこんと意味が抜けたとき、ひょっこり無意味が顔を出す(『風立ちぬ』『マトリックス』)

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 太宰治に「トカトントン」という短編がある。戦争を体験した男が作家に手紙を出している。彼は悩んでいるのだ。恋をしたり、心が動かされたり、何かに情熱を抱いたりしても、どこからか「トカトントン」という音が聞こえてきて、急に何もかも白けてしまう。しまいには「トカトントン」に耐えられなくなって自殺を考えても、聞こえてくるのは「トカトントン」の音――自殺すらもつまらなくなるのだった。手紙も「トカトントン」のせいで、途中から書く気を失っている。

 「トカトントン」は敵としてかなり強い。恐怖に対しては勇気を、痛みに対しては忍耐を、それぞれ対置して人は何とか闘おうとするのだが、「トカトントン」は、それを敵として対抗しようとする気合いそのものを削ぐ。すぐに「トカトントン」に取り込まれ、場合によっては「トカトントン」と鳴らす当事者に成り下がってしまったりもする。

 衣食住に困っていない人間に、徹底的な不幸なんてものはない。だから僕も全く不幸ではないし、むしろ非常に幸せな方だと思うのだが、しかし「トカトントン」をわりに多く聞く。んー、また鳴っていますねー。困ったものです。「トカトントン」が鳴ると、もう何もかもどうでもよくなるんだよなぁ。

 僕が「生きねばならぬ」と伝えてくる映画が好きなのはそのためかもしれない。確かに様々なことはどうでもいい、でもそれでも生きねばならぬ、というのが「トカトントン」に対する唯一の対抗策である。宮崎駿の「風立ちぬ」はまさに文言通りでそれを伝えてくる。

「日本の少年よ、まだ風は吹いているか?」
「吹いています!」
「ならば生きねばならん!」

 風とは何か。夢や希望という解釈も可能だが、何らかの象徴的な意味を求めなくてもいい。風は単なる風である。つまり頬にあたる感触である。つまらない理由かもしれないが、それでいい。「生きねばならぬ」の理由は、できるだけ開示されない方がいい。開示されても、できるだけつまらない方がいい。よくわからないけれど、ともかくも生きてみようじゃないか、風が吹いているんだし。

 あるいはこんなパターンも好きである。『マトリックス』シリーズに登場するモーフィアスは、機械との戦争に生き残りをかけている人類の精神的支柱であるが、彼を支えているのは根拠なき信仰である。モーフィアスは、預言者プログラムの言うとおりに正しく動けば人類が救われると信じている。正しく動けば生き残り、間違えば死ぬ。彼は狂信家である。

「何か間違ったのかしら?」
「いや、間違っていない」
「なぜ?」
「我々はまだ生きている」

 「生きる/死ぬ」が「正しい/正しくない」に変換される。しかしその変換に根拠はない。個人の狂信があるだけである。狂信はカリスマ的資質を以て、他の人に伝搬する。

 村上龍「愛と幻想のファシズム」では、カリスマ性を触媒に狂信が広がっていく過程を描いている。一時期好きで何回も読んだ。題名からもわかる通り、劇中で狂信はテロを生み、ファシズムを現実化する。テロとファシズム。確か新聞によく載っているテーマである。テロやファシズムを肯定する気はないが、世界中のあちこちで色々な人が「トカトントン」の音を聞いているのではないかという気がしてくる。

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