僕は映画狂、というより、映画を語りたい今日

もしかすると、映画そのものよりも映画館の暗闇のほうが好きかもしれない。

【チャッピー】この心を、あの機械に転送してください【感想】

【一言コメント】数百年間にわたり哲学者を悩ませてきた問題に対し、一瞬で結論を出してしまう大胆不敵かつ荒唐無稽な映画です。

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 人間のように学習していくAIが搭載されたロボット・チャッピーが成長する物語。特徴的なのは、育てるのがギャングだという点である。ウサギのような耳がついて見かけも可愛いチャッピーは、どうやら人間でいうところの「大人しい子」の部類に入るらしく、絵本を読んでくれる母役のギャングにはなつくが、銃の打ち方を教える父役のギャングには恐れを抱く。ロボットがへっぴり腰で銃を撃つのをはじめてみた。

 チャッピーはそうして何とか戦闘ロボットになるのだけれど、実はそもそもバッテリーが五日間分しか内蔵されておらず、自分がもうすぐ死ぬことを知ってしまう。この辺りは、知性の普遍性に触れているような気がする。一説では、ゴリラも自分がいずれ死ぬことを知っているとか。なんとか生き延びたいチャッピーだが、開発者のディオンは、チャッピーがもはや普通のロボットではなく、心を持つロボットだから、データを転送するように簡単にはいかないのだと説明する。

 劇的な展開はここからだ。僕は、この映画の潔さに心底感銘を受けた。結論から言うと、この映画では「心の転送」が可能なのである。チャッピーは、ある機械を手に入れて、自分の心をデータ化することに成功する。何やらまだら模様が映ったモニターを見て、「これが僕の心(劇中では意識)なんだね」と感動するチャッピー。無事に自分の心を別のロボットに転送して、生き延びることに成功する。

 真の驚きは次のシーンである。チャッピーに引き続き、開発者のディオン(人間)の心までも、ロボットへと転送される。そしてディオンはロボットとして生きるのだ。なんだこの一周回って逆に斬新な展開は。単純と言えば単純なのだが、ここまで潔いと逆に虚をつかれてしまう。よっしゃ生き延びた、と達成感に酔いしれるチャッピーとディオンを見て、僕は映像芸術の大胆さを改めて教えられた気になった。荒唐無稽なことも堂々と映像化してしまえば、このようになんだか面白いのである。デカルトからメルロ・ポンティに至るまで、大御所の哲学者たちをさえ悩ませ続けてきた心身二元論の扱いも、この映画にかかれば一言で済む。「心と身体は別物だよ。だってそうでしょ、心は転送できるんだもの」

 しかし、実際に大変なのはこれからなのである。マンガ「鋼の錬金術師」に登場するアルフォンス君は、金属に魂を定着され、空っぽの鎧として日々を生きている。その身体では寝ることもできないし、食べることもできない。他の人間と柔らかい肌を合わせることもできない。そして、それが悲しいと思っても涙を流すことさえできない。だって鎧だもの。アルフォンス君は度々そのことを想っては、思い悩んでいる。ディオンも同じことだ。ロボットに人間の心が備わった謎のハイブリッド生命体と化したディオンは、これからどのようにして生きていくのだろうか。そもそも彼にとって生きるってなんなんだ。彼は死なない、ただ壊れるだけだ。そして心は永久に転送され続ける。このように巨大な課題を残しつつも、ご機嫌なディオンは軽やかなステップでエンドロールの向こう側へと去って行った。なんという潔さだろう。僕としては、今後の彼のご健勝とご多幸を願うばかりである。強く生きて、ディオン。彼のその後を描いた続編を希望する。

(監督:ニール・ブロムカンプ 2015年 アメリカ)

チャッピー  CHAPPIE (字幕版)

チャッピー CHAPPIE (字幕版)