僕は映画狂、というより、映画を語りたい今日

もしかすると、映画そのものよりも映画館の暗闇のほうが好きかもしれない。

【ハッピーエンドの選び方】「私は死にたい」と「貴方に死んでほしくない」を描いた物語【感想】(現在公開中映画)

【一言まとめ】安楽死*1をユーモラスな場面も交えて描いた映画です。気楽には観られませんが、「こういうのも『あり』なのかもしれない」ときっと思えます。

※(いつも通り)盛大にネタバレしております。本作をご覧になる予定の方は読まないことをお勧めいたします。

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 安楽死をテーマとした映画。随所にユーモラスなシーンを入れてくれているので、重いテーマのわりに観やすかった。機械いじりが好きな老人ヨヘスケルは、知人の安楽死を助けたことがきっかけで、さらに幾人かの安楽死に関わることになる。そして最後には、認知症の妻も安楽死を望み始めて…、という話。それほど大きくはない劇場だがほとんど満員に近かった。すすり泣く声もたくさんあった。原題は「The Farewell Party」。

 劇中において、安楽死に対する視点を単純化するとこの三つになる。

◆1人称視点から

「私は安らかに死にたい」vs「私は生きようとすべきだ」

◆2人称視点から

「愛しているから貴方には生きてほしい」vs「愛しているから苦しまずに天国に行ってほしい」

◆3人称視点から

「これは殺人だ」vs「これは人助けだ」

 劇中で最も激しい葛藤の舞台となったのは「2人称視点」である。これは主人公ヨヘスケルの視点から物語が示されるからである。健康体である彼にとって、安楽死は「1人称視点」の問題ではない。ヨヘスケルの関心は、知人の死から妻の死へと移行する。それに伴って本作のテーマとしての安楽死は「3人称視点」から「2人称視点」の問題へと移行していくのだ。

 おそらく「3人称視点」において「これは人助けだ」と考えていたはずのヨヘスケルが、妻が安楽死を望み始めたと知るや否や、安楽死を否定しにかかる。筋は通っていないのかもしれないが、これは当然といっていい反応だろう。最終的には、妻の「1人称視点」=「自分が自分でいるうちに死にたい」を優先して、ヨヘスケルが折れることになる。エンドロールが流れている最中に、後ろで見ていた女性が「これがハッピーエンド?」と言うのが聞こえた。

 「安楽死は倫理的に正しいのか?」という大問題に対して、「それは難しい問題やね」という大人の逃げ口上を封印するなら、僕は黙るしかない。正直に言うと、よく分からないのだ。固有名を持った他者の死の倫理的な正しさを、どのようにして判断すればいいのか…。ある死について、「その死が正しくない」と言うとき、僕はどのような権利によって、それを言えばいいのだろうか。それどころか「その死が正しい」と肯定することさえ、不遜な態度であるような気がする。辛うじて言えるのは「2人称視点」からの言明、すなわち本作のヨヘスケルのように、「貴方を愛しているから、貴方の死を望む/望まない」、ただそれだけだろうと思う。

 逃げ口上を続けることになるが、安楽死の問題は、本作のような形で、物語によって物語られることによってしか考えることができない問題なのではないか。死は究極的には「1人称の問題」であり、究極的に「1人称の問題」であることを認識することではじめて真に「2人称の問題」であり得る。認知症の進行に伴い、「自分が自分でなくなること」を極度に恐れつつも、自分を想うが故のユーモアに無邪気に笑う妻を想い出したときに、おそらくヨヘスケルは妻の安楽死を受け入れることを決意したのではあるまいか。「正しい/正しくない」という外部基準を受け付けない性質を持つ、このような事柄を扱うのにもっとも長けているのがおそらく物語である。「3人称の視点」に留まらない安楽死を物語っているという点で、逆にこの映画は、ある種の普遍性を帯びる高度まで到達している。

(監督:シャロン・マイモン、タル・グラニット イスラエル 2015年)

 

*1:このエントリーでは「安楽死」と言う言葉を

http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~shimizu/cleth-dls/euthanasia/euth-def.htmlで定義されている意味で使っています。