僕は映画狂、というより、映画を語りたい今日

もしかすると、映画そのものよりも映画館の暗闇のほうが好きかもしれない。

【オデッセイ】2億キロメートルの断絶、人とつながるということ【感想】

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 一言でいうと、火星版ロビンソン・クルーソーである。サバイバル劇を演じるのはマッド・デイモンで、彼は不慮の事故によって火星に取り残される。確かマッド・デイモンは映画『インターステラー』でも取り残されていた。よく取り残される男である。ここから彼のサバイバル劇がはじまる。あり合わせの材料と道具から食料を確保し、水を生成しようとするその姿は、まさにロビンソン・クルーソーであり、観客は彼の「生活の中の実験」のひとつひとつに共感し、その成功を喜ぶことになる。火星でイモを育てることができれば、そりゃあ「わっほー」と叫びたくなるよ。サバイバル劇は、それだけでエンターテイメントである。

 もちろん、ロビンソン・クルーソーそのままではない。舞台が無人島から火星に変わったことは、当たり前だが小さくない意味を持つ。ロビンソン・クルーソーと比してもなお、彼は圧倒的に孤独である。お空に人工衛星が浮かび、宇宙ステーションで人間が生活する時代になっても、宇宙は孤独と死のメタファーなのだ。

 彼はひとりでビデオカメラに語り掛ける。目的は、自分が生き残れなかった際に備えて記録を残すためだが、語り掛けることで彼は正気を保っているようにも思える。言葉の通じない外国で孤独に耐えきれないとき、つぶやくといいらしい。何てことないティップスだが、声が持つ他者性みたいなものを暗示している。孤独とは他者がいなくなることであり、おそらくその結果、自分の輪郭がなくなることなのだろう。

 この映画の美点のひとつは、マッド・デイモンの挫けぬ勇気である。孤独に押しつぶされそうになっている人は共感するに違いない。どんなに孤独でも、火星に取り残されるよりは幾分かマシでしょう。マッド・デイモンは努めて明るかった。事実を踏まえ、絶望よりも希望を見ようとしていた。誰のために?ーーもちろん自分のために、である。その姿を見ていると、まず僕たちも自分のために明るくあろうと思えるのではないか。

 マッド・デイモンが地球との交信に成功するシーンは最高である。ラストの帰還劇よりも、僕はこちらのほうがより好きだ。昔は知っていたのかもしれないが、今ももう忘れている。つながりすぎている、あるいはつながる力が複雑になりすぎていて、わからなくなってしまっているのかもしれない。本来、つながるというのは、触れるということだったのだ。もっと正確に言えば、つながりというのは、ある種の断絶を前提としている。断絶しているはずの両者が、かろうじて触れ合う。それがつながるということなのだ。2億キロ離れた地球との交信は、触れていないのに触れている感じがした。つながるという体験の原型のようなシーンだった。

 全体として、非常に単純な映画である。トリックで観客を欺いてやろうという魂胆はまるでなく、次の展開もフラグ通りに事がすすんでいく。そういう意味で安心してみられる映画であり、安心できるからこそ勇気づけられるタイプの映画である。 

 【宇宙=孤独の映画を2つ(過去記事より)】 

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