僕は映画狂、というより、映画を語りたい今日

もしかすると、映画そのものよりも映画館の暗闇のほうが好きかもしれない。

【職業としての小説家】村上春樹に聞きたかった、たった一つの質問。【極めて個人的な感想その1】

職業としての小説家 (Switch library)

職業としての小説家 (Switch library)

 

  『海辺のカフカ』で、正体不明のオジサンが猫の心臓をパクパク食べるシーンがある。中学生のときにこのシーンを読んで、危うく吐きそうになった。それ以来、村上春樹があまり好きではない。好きではないのに、ほとんど全部の本を読んでいる。ずっと知りたかったあることを、村上春樹が教えてくれると思っていたからだ。

   小説家は多くの場合、自分の意識の中にあるものを「物語」というかたちに置き換えて、それを表現しようとします。もともとあったかたちと、そこから生じた新しいかたちの間の「落差」を通して、その落差のダイナミズムを梃子のように利用して、何かを語ろうとするわけです。これはかなりまわりくどい、手間のかかる作業です。

『職業としての小説家』 村上春樹 2015年

   村上春樹がこのように書くのははじめてのことではない。これまで何回も別の言い方で、同じ内容を書いている。僕にとって決定的だったのは、大学院のときに読んだものだ。確かそのときは、同じ内容がボクシングに例えられていた。「身のこなし方の落差によって意味が生じる」とか何とか(引用元を見つけられず)。99%のセンテンスが感動的に読みやすい村上春樹なのに、この部分だけは理解不能だった。そして、それが僕には致命的なものに思えた。

 大学院に在籍しながら、僕は研究者として生きていこうと考えていたが、それには幾つかクリアすべきポイントがあった。その筆頭が、「解けない問い」を探し出すこと。これを探しださねば、僕はきっと生きていけないだろう、とまで考えていた。ずいぶんと思いつめたものだが、当時は当時で、まあそれなりに必死だったのだ。

 「解けない問い」とは何か。それは、個人の唯一性の刻印であり、生きる意味の源泉である。非常にストイックで青臭い人間観だったと思う。人間とは、そうした「解けない問い」を生きるものだと固く信じていた。そして研究者とは、その「解けない問い」にまっすぐに立ち向かう騎士のようなもので、「解けない問い」こそが研究者のアイデンティティであり、探求のモチベーションとなるはずだった。

 では、「解けない問い」はどこにあるのか。それは「生きにくさ」の中にある、と考えた。僕は持て余していたのである。感情装置として故障しているとしか思えない自分や、わけがわからない反応をする他者、そして自分と他者の間に生じる、理不尽な関係、その全てを。しかし、そうした「生きにくさ」の中にこそ、光る原石のような「解けない問い」が潜んでいる、そう考えた。この時点で、僕にとって「生きにくさ」とは、極めてアンビバレントなものとなった。つまり一方では自分を悩ませ痛めつけるもの、しかしもう一方では自分の唯一性を保証してくれるもの。この「生きにくさ」と心中しよう、とこれまた思いつめていたのである。なんだかちょっと、中島義道みたいだ。

 では、「生きにくさ」の中からどのようにして「解けない問い」を見いだすのか。外から見ると意外なことかもしれないが、こういうことは、大学院では全く教えてくれない。教えてもらえるのは既存の「問い」に答える学問的なテクニックだけだ。その方法を自分の問いへと援用することで、答えを得る。それが研究である。上記の引用で、村上春樹は「落差のダイナミズムを梃子のように利用して、何かを語ろうとする」と書いている。様々なことを検討した末、僕にはこれが、「生きにくさ」から「解けない問い」を抽出するベスト・メソッドのように思えた。動きの中で感じる違和感こそが、「解けない問い」の正体である、と感じていたからだ。しかし、何としても理解しなければならないこのセンテンスが、最後までまるで理解できなかった。

 ずいぶんと悩んだ末に、僕は「解けない問い」を探すのを一時的にやめた。「解けない問い」の化身だと考えていた「生きにくさ」も、実は、別の角度からアプローチすれば、実践的に解消していけるものかもしれない、と考え始めた。要するに、この「生きにくさ」は、もしもお金があれば、もしも異性にモテれば、もしも人間関係で上手く立ち回ることができれば、全て解消するのではないか、と。上述のように「生きにくさ」はある意味で、僕の価値を保証してくれるものだったので、手放すのは避けたかったが、研究者としてやっていけるとはどうしても思えなかった。

 結論から言おう。予感は正しかった。会社で働いた数年間で、自分の「生きにくさ」の全ては、悲しいほどあっけなく霧散した。「生きにくさ」の正体は「解けない問い」ではなく、ただの技術的な稚拙さであった。だから、人間関係において、少しずつ技術が向上していくにつれて、悩むことも少なくなった。今はお金がないことだけが、悩みである。もしも僕はお金持ちになったら全ての悩みを失い、もうやるべきことも見いだせなくなるかもしれない。それはそれで全く構わないのだが、「生きにくさ」を抱きしめたあの感触が残っている今のうちは、やはりどこか寂しいような気がしている。