「人間は皆死ぬ」「で?」――「で?」の次に来るもの
明日死ぬかもしれない。その事実をどのように受け止めるのか。
中学生や高校生の頃、その事実に対して、深刻さを以て対峙する他なかった。死にたくない。でも死ぬんだ。何なのだろうか、この理不尽は…。
しかし、20代を人並みにやり過ごし、30歳を超えた今、深刻さはどこかに消え去った。日常の些事に心をくだいている間は、深刻さが付け入る隙なんてない。死? そんなん知らへんよ。それよりも明日のプレゼン資料だ。徹夜だぜ。
徹夜のパワーポイント作業。んー、アニメーションが面倒である。そこに訪れるのは、パリンコと虚無である。深刻さの次にやって来るのは、パリンコと虚無なのである。深夜、パリパリとパリンコを食べながら考える。なるほど人間はみな死ぬ。それは分かった。で、どうすればいいんだ。
「で、どうすればいいんだ?」
この「で」が、僕の脳を一瞬にしてフリーズさせる。「で?」。そこから展開されることなんて、何一つないのだ。その先には何もない虚無。フリーズから覚めるために、もう一度パワーポイントに戻る必要がある。アニメーションは面倒だが、無駄にしか思えないアニメーションをカチカチ鳴らしてつけていく他、僕に進むべき道はないのだ。果たして、このカチカチは、「で?」に答える作業となってくれるだろうか。
「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」
とゴーギャンは絵画を通して問うた。パリンコを食べながら、すげーなー、と思う。結局、そういうことになるのではないか。大変失礼なことを申し上げるが、今僕がカチカチ鳴らすことで何とかしようとしていること、それをゴーギャンは絵を描くことで何とかしようとしたのではないか。違ったのは、僕が圧倒的に無能だったこと。そして僕の手元にはパリンコがあったこと。今、僕の唯一の救いは、パリンコである。ぱりぱりしながら思う。結局、そういうことではないか。「で?」の次に来るもの――それは何かを描くことでしかないのでないか。