僕は映画狂、というより、映画を語りたい今日

もしかすると、映画そのものよりも映画館の暗闇のほうが好きかもしれない。

【シン・ゴジラ】ゴジラさんが来たので、何かを壊して何かをはじめる。【感想】(劇場公開中)

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 もう僕は、シン・ゴジラになりたい。なってやりたい。現実ではなく虚構の方へ。弱者集合ではなく究極生物の方へ。嫉妬するほどのスペック。口からビーム、背中でビーム、シッポでビーム。僕はビールを今日もノーム。ヒールのフリして帰るホーム。

 「このクニはまだやれると感じるよ」

 大震災を経験し、原発事故のワルツを踊っている我々の切実な部分を衝いてくる。会議でのモタモタした意思決定はめちゃくちゃイラつくが、ヒーローに頼らない日本の良さ/悪さという意味で、受け入れる価値があるのではないかと思ってしまう。ゴジラによって知る日本の良さ。土下座外交、働くクルマ、在来線爆弾。観客に理解させる気がない法律用語の数々が重みとなって、ゴジラのリアリティを支えている。

 ゴジラの爬虫類のような眼には、圧倒的な絶望感がある。たしかに、あいつとは絶対にコミュニケーションはとれませんよ。ゴジラは無表情でひたすら東京に向かってくるのみである。軍事力を持ってしか対応できない生物は果たして生物なのだろうか、なんていう甘い疑問はゴジラさんが破壊した東京の惨状を見れば自然に引っ込んでいく。疑問はあるだろう、しかし今は戦うときだ。あいつを殺さねばならぬ。それが日本に突き付けられた絶望である。

 少し前のアメリカ版ゴジラには、渡辺謙という代弁者がいた。合っているかどうかはともかくとして彼はゴジラの意志を語り、ゴジラにある種の信頼を置いている。実際にゴジラはその信頼にある意味で応える。しかしその点、シン・ゴジラの方は理不尽を極めている。やつとは、コミュニカティブな関係はまったく築けない。シン・ゴジラはなぜわざわざ東京に来るのか。どうして鳥取のド田舎ではなく(鳥取の方すみません)、北方領土でもなく(それはそれでややこしいが)、我が国の首都、東京に来るのか。そして日本に立ち直れないほどの、そして我武者羅に立ちあがることを強制するほどのダメージを与えてくるのか。

 奇妙な答え方だが、それはおそらく、我々がそう望んでいるからだろう。シン・ゴジラがもしも「エンターテイメント的に面白い」というレベルを超えて、何かを心に植え付けるものがあるとしたら、それはゴジラが理不尽なまでに東京を破壊するからだ。そして、それを我々が望んでいたからだ。ゆるやかな衰退に対するゆるやかな抵抗、そういう中途半端を吹き飛ばしてくれる圧倒的な危機感そのものをどこかで望んでいるからだ。

 映画を観た後に、猛烈に何かを変えたくなる映画は少ない。シン・ゴジラを観たあと、僕は何かを壊して何かをゼロからはじめたくなった。震災の経験が直接的な痛みから霧のような記憶へと変わりつつあるこのタイミングで、個人のなかに何か新しいものが芽生えるとしたら、もう一度、個人がゴジラ的な何かと向き合った瞬間だろうと思う。