僕は映画狂、というより、映画を語りたい今日

もしかすると、映画そのものよりも映画館の暗闇のほうが好きかもしれない。

カオナシの中にいた人は、今どこで何をしているのか(『千と千尋の神隠し』)

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 カオナシの中――ぞっとする。

 カオナシは、現代人の孤独の象徴とか、人間の欲望そのものを表現したものだとか言われる。あれほど総合的な映画なのだ。様々な解釈が可能だろう。凶暴な外見とは裏腹に、絞り出すような声で「サ、サビシイ…」と漏らす声は、彼が金縛りのような孤独の中にいることを僕たちに知らしめる。

 カオナシは次々と他者を呑みこむ。どうしてだろうか。カオナシは空っぽである。それ自体では何も欲していない。しかし、人間が「他者が欲するがゆえに他者が欲するものを欲す」ように、カオナシも他者が欲するものを欲す。

 最終的にカオナシは何を欲したか? カオナシは自己が他者に欲されることを欲した。根源的な承認を欲したと言い換えてもいい。他者に欲されることで、空っぽな自己が価値を持つことを欲したのである。しかし、カオナシは最も欲しかった千尋の承認を得られず、この力関係がカオナシを半ば強制的に変化させるきっかけとなる。

 だが、僕が「千と千尋の神隠し」をはじめて観たときに感じたのは、このような解釈に基づく恐怖ではなかった。カオナシが不気味なのは、現代人の孤独が描かれているからでも、人間的欲求がグロテスクに表現されているからでもない。

 真の恐怖は、カオナシの口の奥である。あの牙とあの長い舌。垂れて落ちる唾液。そして、あの喉の奥の暗闇! あの暗闇の深さは何なのだろう。吸い込まれた先には何が待っているのか。

 そして下の発想に至ったときに、恐怖は頂点に達した。

カオナシの喉からはじめて出てきた人は、きっと笑っていたはずだ」

 カオナシが欠落だとするなら、次のような物語が少なくとも想定可能である。なぜから、欠落にはその定義上、欠落していなかった時代の物語が刻印されているはずだからだ。

 カオナシは、おそらく原初の時点では、今のような姿ではなかった。つまり殻だけではなかったはずである。そのカオナシを、完全体カオナシと呼ぶと、完全体カオナシには中身があった。というより、中身と殻が一体化していた。

 しかしある時点で、何らかの拍子で、中身と殻が分離するときが来た。その中身はカオナシの口中の闇から抜け出てきた。カオナシが吐き出した彼/彼女は、そのときどんな顔をしていたか。それは不気味なほどの笑みをたたえていたに違いない。そしてそのまま振り返らずに立ち去ったのだ――後ろに顔を失くしたカオナシを残して。

 カオナシは、欠落である。カオナシには輪郭しかない。闇を抱える輪郭である。その闇の部分にいたはずの人は、今どこで何をしているのか。カオナシがおぞましい姿を呈し、ひたすら他者の承認を欲しているそのときに、彼はその光景を遠くに眺めて、また不気味に笑っているのではないか。

 そう思うと、恐ろしいのである。僕もまた、ひとつの欠落だとするなら、僕の喉から抜け出ていったのは、いったい誰だったのか。彼は今どこで何をしているのか。僕が孤独や虚無に沈み込むとき、彼はいったい何をしているのか。僕が絶対にそうできないような仕方で、高らかに笑っているのではないか。

映画ファンを代表する資格はないけれど、映画ファンについて。

  前の記事で「映画を観ていない間、映画ファンは何をしているのか」ということを書いたのだけれど、この問いに対して、実に明快な答えを持っている人もいる。その答えとは、「別の映画を観ている」だ。

 GOOGLE先生に聞いたところによると、中には1年で500本上の映画を観ている人もいるらしい。いったいどんな生活をしているのだろうか。映画業界の方でないとしたら、これこそ筋金入りの映画ファンである。

 500本というと1本2時間として1000時間。つまり40日程度。子どもの頃の夏休を、不眠不休で映画に捧げて、ちょうど賄えるような時間である。スイカを割っている暇もなければ、夏休みの宿題をやっている時間もない(これは、別にこの場合に限らないが)。

 そういう人が存在する傍らで、僕ごときが映画ファンを名乗るのは、おこがましいような気がする。こちとら、仕事が忙しくなれば真っ先に鑑賞時間を切り捨てる「ヘタレファン」である。年末年始の今なんかはまさにそうである。新しい映画を観るくらいなら、昔観た映画を想い出す。そしてそれについて書く。

 500作も観る人は映画への愛が強すぎて、おそらく振り返らない人なのだろう。「ヘタレファン」として発言すると、僕は年に観るのが50本だけでも(50でも500に比べたら「だけ」である)、おそらくそれに費やした100時間のことを必ずどこかで考えてしまうだろう。楽しかったけれど、本当にこんなものに100時間もかけて良いのか。生きるって、そんなにテキトーでいいのか。

 もう僕は映画を観なくてもいいのかもしれない。今まで観た映画の分だけで、たぶんこの先3年間くらいは書くことに困らないだろう。尽きたころには、またチョロっと新しい映画を観ればいい。そしてその分の浮いた時間を、別のことに投入する。そうすれば、全てが上手く回っていくではないか。

 しかし、そうはいかぬのである。この「そうはいかぬ」こそが、自分が映画ファンである、と確信する唯一の根拠である。いろいろなことを考えても、映画を観ていない時間が長いと、どうしても立ち行かぬ。それは、ずっと孤独に過ごしていたときに、無性に人恋しくなるのに似ている。誰でもいいから会ってくれ。何でもいいから映画を見せてくれ。そうでなければ気が済まないのである。

 「映画を観ていない間、映画ファンは何をしているのか」という問いに対しては、だから、次のように答えられるだろう。「何とか気を済まそうとしている」。映画ファンとは、映画を観ていない間は「気が済んでいない」人たちのことである。彼ら/僕らは映画を撮るわけにもいかないから、気が済まないなりに様々なことをしている人たちである。例えば映画ブログを書くとか、ダースベイダーのコスプレをしてみるとか。

映画ファンは映画を観ていない間、何をしているのか。

 ブログを初めて以来、一端の映画ファンの顔をしているが、映画を観ないときに、どんな顔をして生きればいいのかわからない。他の映画ファンは映画を観ていない間、どんな顔をしているのか。

 僕の場合、書いている。それだけである。

 スタンダールの墓碑銘には「生きた、書いた、恋した」と記してある。僕はおそらく死ぬときに「生きた」なんて大胆不敵なことを残せないし、「恋した」に至ってはもう絶望的である。しかし、「書いた」だけは残せる自信がある。だから僕の墓碑銘は「書いた」だけにしてもらおう。「書いた、書いた、書いた」。分かりやすくていいだろう。

 今もブログ以外に映画のことをたくさん書いているし、それ以外のことも相当量の文章にして残している。いわば記録中毒である。映画ブログをはじめる前も、おそらく映画を観た時間以上の時間を、映画について書くことに費やしている。

 書くこと以外に、映画への情熱を表現する術を知らない。話によると、インドでは映画を観ている間も、歌ったり踊ったり、何かつまんだりするらしい(本当か?)。もし嘘だとしても、例えばそういう場があったら、映画への情熱をぶつける先ができるかもしれない。

 他の映画ファンは何をしているのだろう。サッカーファンだったら普段は自分でサッカーボールを蹴っているかもしれない。将棋ファンは、普段は詰将棋を解いたり、対局をしてみたり、あるいは王手の練習でもしているのだろう。自分がファンでありプレイヤーであれば、やることには困らない。しかし映画ファンは? やっぱり書くしかないのではないか。書かないのであれば、もはやダースベイダーのコスプレでもするしかない。

 人としゃべればいい、と言う人もいる。きっとそういう人は、自覚はないかもしれないが、かなり喋るのが上手な人だと思う。僕は書いていない映画を喋ることができない。劇場を出た瞬間には、喋ることができる情報はゼロである。何から喋っていいかわからないし、そもそも何を喋っていいのかもわからない。喋ることができるとしたら、「神経が興奮しています」とか、それに類することだけである。

新年の抱負「浜崎あゆみは現代のジャンヌ・ダルクか」みたいなことを言って、馬鹿にされたい。

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ジャンヌ・ダルク

 高校生のころの話である。浜崎ファンのTが言った。

浜崎あゆみは、現代のジャンヌ・ダルクか」

 Tにとって不幸だったのは、そのときに何となく集まっていた数人の誰も、ジャンヌ・ダルクを正確に知らなかったことだった。しかし、その数人は知らないことについて喋り倒すことに措いて、卓越した技術を持っていた。この卓越した技術は、高校生のときに誰もが身に着けているものだが、分別ある大人になるにつれ、その技術は羞恥心に変換され、失われていく。

「そら、ジャンヌやろ」

「いや、ダルクや」

「ハマサキ・アユミやな」

「現代の、というシバリで言うと、確かに浜崎なんやろうな」

 そのうち、ジャンヌ・ダルクがフランスの女性であるという画期的な発見(記憶の回復)がなされた。

「日本のジャンヌが浜崎なんや」

「ということは、ブラジルにはブラジルのジャンヌがいる」

「ブラジルではもちろん、ジャン『ヌ』の『ヌ』が強調される」

「そもそも、『ヌ』ってなんなんやろうな」

「少なくとも『メ』ではない」

「しかも『フ』ですらない」

「浜崎には『ヌ』要素がないな」

「それもこれからやろ」

「ブラジルに移住や」

 終わりのない禅問答に我々が引き込まれつつあるのをTは不満そうに眺め、我々を啓蒙せんとする強い志を持って、次のように言い放った。

浜崎あゆみは、現代のジャンヌ・ダルクである!」

 そのあまりの迫力の前に我々は慄き、そしてついに浜崎あゆみが「現代のジャンヌ・ダルク」であることを認めることになるのである。Tもジャンヌ・ダルクについて、ほとんど全く知らなかったのにも関わらず、である。

「浜崎の歌いいやろ、だからな、浜崎はジャンヌやねん」

***************

 このやり取りの発端となった「浜崎あゆみは現代のジャンヌ・ダルクか」という問いかけは、Tが手元に持っていたコンサートのパンフレットに掲載されていたものだった。Tの貴重な財産を投じて得られたこのパンフレットは、暇を持て余していた高校生に、ひとときの有意義な禅問答をもたらした。

 それから10年以上が経った今、僕がこのやり取りから学べる要素は、次の2つである。

①無茶苦茶な内容でも、迫力=情熱で押し切ることが可能である。
②「浜崎あゆみは現代のジャンヌ・ダルクか」みたいな文言を書けるのは、ある種の勇気である。

 いつの間にか僕は、ある程度の分別を身に着け、「浜崎あゆみは現代のジャンヌ・ダルクか」なんてことを言わない大人になっている。別に思いつかないのではなく、そんなことを言うや否や、馬鹿にする顔が浮かぶからである。だいたいオヤジ世代のオヤジさん達であるが、その顔のひとつには、もちろん自分の顔も含まれている(頼むから僕の偏見を嗤ってくれ)。

 でも、こうやって映画ブログを始めたからには、僕はいつの間にか捨て去った勇気を、もう一度取り戻さなければならないのではないか。12月中旬からずっと考えて来た「スターウォーズがなぜ面白いのか」という問いにしても、「浜崎~」の問いと変わらないのである。真面目な顔をして、人生の上では意味がなさそうなことに傾倒している。ただ、それだけの話である。

 しかし、本来映画や本というのは、その程度のもの、くらいに思っていた方が風通しが良くて、楽しいのではないか。スクリーンに投影された単ある絵に、あるいは紙の上のざっと並んだ単なる文字群に対して、それほど気構える必要もあるまい。勝手なことを言って、馬鹿にする奴には馬鹿にさせて、ルンルンと楽しく過ごせれば、それでいいのである。必要なのは、ちょっとした勇気。恥を捨てよ、自分。そして「恥を知れ」と言う輩を情熱によって押し切るのだ。

 新年の抱負はずばりこれである。

 「浜崎あゆみは現代のジャンヌ・ダルク」みたいなことを言って、馬鹿にされたい。

「スターウォーズ/フォースの覚醒」への批判を読む②【スターウォーズ祭り開催中】

  待っていてもなかなか出てきてくれない。僕が見つけられていないだけなのかもしれない。

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 ◆実は少ない「がっつり批評」

 スターウォーズの「がっつり批評」がネット上に増えるのを、ずっと楽しみに待っているのだけれど、それほど増える気配はない。爆発的に増えているのは、レビューサイトなどに投稿される「一言感想」の方である。

 確かにそういう「一言感想」を読むのも楽しいのだけれど、「一つの映画を総合的に語る」ためには、一定量以上の言葉が必要なのもおそらく事実で、そういう分量の感想は、日本語で書かれたものに限ると、100万人以上が観ている映画だと思えないほど少ない(そして当ブログも含めて、質的にある一定以上の水準に達しているものはもっと少ないと思われる)。大手メディアのネット記事もそれほど本気を出していないように見えるので、もしかすると紙媒体のほうに集中して展開されているのかもしれない。いよいよ雑誌に手を出すときが来たか。

 前置きは長くなったが、以下は、ネットで見つけた感想をまとめた【ネット感想見聞録】。映画の楽しみの一つは、他の人の感想を読むこと。今回でも改めて実感しました(引用に問題がある場合は、お手数ですが、コメント欄にてご連絡ください。削除等、迅速に対処します)。

  当ブログの感想はこちら(他にもたくさん書いています)。

uselesslessons.hatenablog.com

 

◆好意的な感想がほとんど

 好意的な感想で最も多いのは、以下の2点を指摘する感想である。

スターウォーズの遺伝子が引き継がれていた(特にエピソード4~6の遺伝子が)
②前世代のキャラを蔑にすることなく、新世代のキャラを魅力的に見せるのに成功している

 こうした好意的な感想は上述通り、そもそも「がっつり感想」の数は少ないながらも、それなりの数あり、「楽しかった」「最高!」という感想は読んでいてこちらも嬉しくなってくる。いやぁ本当に最高でしたね。

 この種の感想の中で、最も面白かった(というか共感した)のは、このブログの感想。エピソード7を観ると、ある種の「せつなさ」を感じる、とのこと。リアルタイムで観てきた世代の方ならではの感想だと思う。僕はこの域には達していない。

  僕はこの『エピソード7』、制約のなかで、よくここまでのクオリティのものをつくったな、と思いましたし、『エピソード4~6』のキャラクターたちが出てくるたびに、頬が緩みっぱなしだったのです。
 だからこそ……それがこの世の理だということはわかるし、映画的にも必要なのだとは思うけれど、「世代交代」というのは、つらい。
 そのために、「フィクションであるがゆえの永遠」が失われてしまうというのは、せつない。

d.hatena.ne.jp

 

◆批判記事

 批判記事は、本当に少ない。「がっつり批評」と言える分量に達しているのは、以前当ブログでも取り上げた前田有一さんの批判くらいしかない(下リンク)。なんせ、googleで「フォースの覚醒 批判」で調べたら、このブログの記事が2番目に来て、びっくりした。もちろん嬉しいけれど、少しさみしい事態である。罵倒するだけの批判はいらないが、理屈立てて行う批判は面白い。 そういう批判が読みたいのだが。

uselesslessons.hatenablog.com

  ところで「フォースの覚醒 批判」で調べて一番上に出るのはこちら。

スターウォーズ/フォースの覚醒は面白くない?ダメな5つの設定 - 映画の秘密ドットコム

 エピソード4~6とに過ぎている、とか、スノークが大きすぎる、とか「まあそれは確かにそうだね」と言いたくなるものばかり。

 ただ、僕も以前の記事で書いたけれど、スターウォーズと言うのは、そういうものなのだ。巨大な隙があって、それも含めて面白い、という映画だ。そういう意味で、下記のリンクが極めて的確な表現だと思う。

また、「最高」であっても、決して「完ぺき」ではなく、だからこそ、観客の想像力を刺激する風通しの良さがある点も大きな魅力。

  逆に言うと、「隙」があって「完ぺき」でないことが気になりだしたら、面白く見ることも確かに難しいかもしれない。

www.cinemacafe.net

◆「帝国軍アホすぎやろ」の批判が予言するエピソード8以降

 ちなみに、スターウォーズの「隙」が気になるのは、当然日本人ばかりではなく、以下のサイトでも、同じようなことが指摘されている。このあきれ方が凄く面白かった。

Seriously? Three times now the bad guys build a big weapon and the good guys find one small flaw in it and send one party to creep around inside it and another desperate sortie of ships to attack it? At that point, I was outside the movie, thinking about it rather than absorbed in it.

 かなり端折って関西弁訳すると、
「マジなん? ゴンタ君たちがまた惑星級の巨大兵器を作ったのに、しょーもない弱点をつかれてすぐに大爆発! おんなじことがこれで3度目やで。ちょっとはまなびーな。テンション下がったわー」

 帝国軍がアホなことは、全面的に同意したい。どうしてあれほどの規模の兵器なのに、ほんの一点をつつかれただけで爆発するのか。軟弱すぎないか。設計者を問いただしたい。

www.vox.com

 

◆「まだ若く何者でもない」エピソード7は予告編?

 実は上記の英語感想を引用したのは、帝国軍のアホさに共感したからではなく、むしろ下の意見に賛成の意を表したいからだ。全体的に辛口の批評なのだけれど、言っていることは正鵠を射ていると思う。

If Star Wars VIII takes the franchise in a bold new direction, some of The Force Awakens' sins will be forgiven. It will look, in retrospect, like an extended trailer, meant to reintroduce us to the world and situate some new characters in it. If the second in the trilogy is just a retread of The Empire Strikes Back, The Force Awakens (and Disney) will look much worse.

 つまり、後から振り返って、エピソード7が成功であったという状況になるとすれば、それは「エピソード7はエピソード8~9の予告編だった」という状態でしかあり得ないだろう、ということを言っている。

 これはすこぶる正しいと思う。「フォースの覚醒」はリブートのようなものであり、スターウォーズシリーズが今まで置いてあった台座に、少し新しいスターウォーズを置いてみたに過ぎない。それがJ.J.エイブラムスにとって唯一の可能な仕事だったし、彼はその仕事を考え得る限りで最も素晴らしい水準で成し遂げた。

 かなり楽観的&好意的すぎるのかもしれないが、上の「予言」はかなりの確率で当たるのではないか。エピソード7は、のちに続く偉大なエピソード8~9の予告編であるようにそもそも作られているのではないか。

 その一つの傍証として、キャラクターの描き方を上げておきたい。レイ、フィン、カイロ・レンについて、以下のサイトはこのように書いている。

  このメインキャラクター3人は、若くまだ何者でもない自分に葛藤している姿がキャラクターの個性となり “スター・ウォーズDNA”を受け継ぎながらも、新しい世代にメッセージを送っている。

  キャラクター設定はもっと他の形にもできた。つまり、もっと成熟した大人たちの戦争を描くこともできたはずである。しかしJ.J.エイブラムスは、そうしなかった。なぜか。それは製作意図として、エピソード7の位置づけに拘ったからではないか。

 彼らがどういうキャラクターになるかは、今後の続編が決定する。彼らは「若くまだ何者でもない」キャラクターである。それと同様に、エピソード7自体も、今後の続編でその真価が決定する「若く何者でもない」映画なのではないか。現時点での賞賛も批判も、後から振り返ってみれば「早計だった」ということになるかもしれない。

www.cinematoday.jp

お正月に一人ぼっち? それなら「一人ぼっち」映画を観ましょう。勇気が出ます。

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◆これほどの孤独は味わいたくないけれど・・・

 孤独を描いた映画は素晴らしい。それも飛びっきりの孤独。つまり「周りに人がいるけれど、心は孤独だった」みたいな孤独ではなくて、「周りのどこを見ても、ひとっこ一人いません」みたいな物理的にも孤独な映画である。

 オデッセイ(16年2月公開)はどうやらそんな映画のようで、予告編ですでに少し感動してしまった。火星にただ一人取り残されたマッド・デイモンが、地球の支援を受けながら(どんな支援だ?5000万km以上離れているんだぞ)、地球への帰還を果たすという物語(たぶん)。


映画『オデッセイ 』予告編

 

◆マッド・デイモン取り残されすぎ

 マッド・デイモンは映画『インターステラ―』でも、ある惑星に取り残されていた。この映画では地球がもう駄目になっていて、人類は移住先を探している。マッド・デイモンはその移住先を数百光年先まで探しに行く天才物理学者である。彼は覚悟して地球を経つ。何の覚悟か? 「生きて帰ってこられない」という覚悟である。マッド・デイモンは人類の存続のために命を捧げた英雄だったのである。彼は、無事に調査対象となる星に到着し、調査結果を人類に送る。

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 彼がおかしくなるのはここからである。マッド・デイモンはあまりの孤独に耐えられなかった。しかも到着した星は、人類の移住が不可能な不毛の地。自分の命を捧げた目的を達成できず、家族からも数百光年離れた惑星で、ひとり孤独に生きるマッド・デイモン。ついには虚偽報告までして、人類の迎えを要請し、帰還するためのロケットを奪おうとする。

 人類の「強さ」と「弱さ」を描いたこの映画の中で、マッド・デイモンは人類の「弱さ」を代表する人物のひとりなのだが、彼を責める気にはならない。惑星すべてを探しても他の人間が誰一人いない中で、人がどうやって正気を保つことができるのか。そんなことは不可能である。 

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◆狂気に身をゆだねることで正気を保った「地球最後の男」

 そういう意味で、映画「地球最後の男」は、正気を保つために狂気に身をゆだねた映画である。

 ・・・とは言っても主人公には狂気に身をゆだねた自覚はない。地球の人類が全滅してしまった状況で、狭い宇宙船に閉じ込められたまま数年間を過ごした主人公の男に、数百年前の男の記憶が憑依する。その記憶に突き動かされるように、主人公は見たはずもない光景を、ひたすら宇宙船の壁という壁に描く。この場面は狂気じみていて恐怖も感じるが、それ以上に人が人を求めるということが、象徴的に描かれていて素晴らしかった(当ブログの感想は以下)。

 ラスコーの壁画の時代から、人は他者という無限遠の地点へ、命を削ってまで漸近しようとしていたのである。おそらくそれは、人が人らしく生きるということと、深く関係しているのだろう。

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◆孤独な映画が面白いのは、人が他者を渇望する姿が描かれているから。

 死を象徴する宇宙で、たった一人残される「ゼロ・グラビティ」(当ブログ感想はは以下)、無人島にひとり取り残される「キャスト・アウェイ」など、「一人ぼっちで取り残される」映画はすべて、たったひとり残された主人公が、他者を渇望する様子が描かれる。彼/彼女は、死の誘惑に必死に抗いながら、他者が待っているはずの未来へと帰還を果たそうとする。

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  つまり孤独を描いた映画は、表面上は孤独を描きながらも、人間が本来持っている他者への志向性をテーマにしている。他者が存在するということ、自分とは違う目で世界を眺める他者が存在するということが、結果的には、自分が生きるということの基底となっている。これは、「人はみんな支え合って生きているんだ」みたいな話とは、似ているようで全く違う。極端に言うと、憎み合っている人間同士であっても、お互いがお互いの生の基底となっているのである。

 そう思えば、70億人もの人類がいるこの地球で、お正月に一人ぼっちであることなど、何の困難もないはずである。一人ぼっちの寂しさをとことん味わい、他者への渇望をたぎらせ、目を血走らせて新年を開始しようではないか。

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映画感想に意味があるとしたら、こういうこと~時には赤ちゃんみたいに笑ってみたい~

【一言まとめ】映画の感想を書くことに意味があるとしたら、それは日常が変わるかもしれないからではないでしょうか(自信なし)。

 

◆赤ちゃん動画を観てほしい

 この赤ちゃんのように感じるためには、どうしたらいいのか。生まれつき視力が弱かった赤ちゃんが、メガネをかけて周りを見渡したときに、「歓喜ってこういう表情だったんだ」と改めて知らしめるような表情で笑う(35秒間)。


メガネかけ「世界が変わった」赤ちゃん piper can see!

  大切なことは、こういうことだと思う。赤ちゃんにとって、おそらくこの瞬間は決定的だった。メガネをかける以前と、メガネをかけて驚いた以後の世界は、おそらく全く違っている。赤ちゃんは単に驚いて喜んだのではない。母の顔を鮮明に見たことは、赤ちゃんの生を以前と全く違うものへと変えてしまったのである。

 大人にとって、驚き、世界が変わることが可能か。そもそも大人になると、この赤ちゃんのように世界に驚くことすら、極めて稀である。たとえ新鮮さを感じたとして、曲がりなりにもルーティーンを作り上げてきた大人にとって、それは日常を離れることでしかない。ひとときの新鮮さを楽しんだとしても、それが身体の組成を変えることはない。新鮮さは記憶BOXにそのまま放り込まれ、また大人は同じ日常に戻っていく。日常は何も変わらない。

 自分は赤ちゃんのように笑うことは可能なのか。可能である、はずだ。聞くところによると自分にも赤ちゃんだった時代があったわけだから(信じられないが)、映像の赤ちゃんのように世界の新鮮さに打ち震えた経験があったはずである。それが、たかが三十年ほど生きただけで、この世のほとんどを知ったような気になっている。

 

◆映画の感想を書く意味

 赤ちゃんはメガネをかけるだけで良かったが、大人が新鮮さを身体に取り込むのには、もう少しシステマティックな取り組みが必要なのかもしれない。例えば、小説の「異化」という手法は、その一つとして位置付けることができる。

 慣習化は仕事を、衣服を、家具を、妻を、そして戦争の恐怖を蝕む。……そして芸術は、人が生の感触を取り戻すために存在する。それは人に様々な事物をあるがままに、堅いものを「堅いもの」として感じさせるために存在する。芸術の目的は、事物を知識としてではなく、感触として伝えることである。(シクロフスキー「手法としての芸術」)

 夏目漱石が「吾輩は猫である」で猫の視点から明治を描いてその「ヘンテコさ」を強調したとき、普段は意識することのない日常の「ヘンテコな感じ」が感触として感じられる。これは特に小説に限ったことではなく、映画でも十分に起こり得ることである。

 ただ、この異化という手法が完成するためには、映画を製作する側だけでなく、映画を受け取る側の営みが不可欠である、と思う。受け取った「ヘンテコな感じ」を消化するための営み。もしそれが、映画の感想を書き続けることで、部分的にも達成できるのであれば、映画鑑賞は何かしらの目的志向性を持ち得ることになる。数日前に「映画を観ることには何の生産性もない」(下記リンク)というようなことを書いたばかりだが、そういう仄かな可能性をどこかで意識しつつ、馬鹿な感想を今年も書いていきたいと思う。

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