新年の抱負「浜崎あゆみは現代のジャンヌ・ダルクか」みたいなことを言って、馬鹿にされたい。
高校生のころの話である。浜崎ファンのTが言った。
Tにとって不幸だったのは、そのときに何となく集まっていた数人の誰も、ジャンヌ・ダルクを正確に知らなかったことだった。しかし、その数人は知らないことについて喋り倒すことに措いて、卓越した技術を持っていた。この卓越した技術は、高校生のときに誰もが身に着けているものだが、分別ある大人になるにつれ、その技術は羞恥心に変換され、失われていく。
「そら、ジャンヌやろ」
「いや、ダルクや」
「ハマサキ・アユミやな」
「現代の、というシバリで言うと、確かに浜崎なんやろうな」
そのうち、ジャンヌ・ダルクがフランスの女性であるという画期的な発見(記憶の回復)がなされた。
「日本のジャンヌが浜崎なんや」
「ということは、ブラジルにはブラジルのジャンヌがいる」
「ブラジルではもちろん、ジャン『ヌ』の『ヌ』が強調される」
「そもそも、『ヌ』ってなんなんやろうな」
「少なくとも『メ』ではない」
「しかも『フ』ですらない」
「浜崎には『ヌ』要素がないな」
「それもこれからやろ」
「ブラジルに移住や」
終わりのない禅問答に我々が引き込まれつつあるのをTは不満そうに眺め、我々を啓蒙せんとする強い志を持って、次のように言い放った。
そのあまりの迫力の前に我々は慄き、そしてついに浜崎あゆみが「現代のジャンヌ・ダルク」であることを認めることになるのである。Tもジャンヌ・ダルクについて、ほとんど全く知らなかったのにも関わらず、である。
「浜崎の歌いいやろ、だからな、浜崎はジャンヌやねん」
***************
このやり取りの発端となった「浜崎あゆみは現代のジャンヌ・ダルクか」という問いかけは、Tが手元に持っていたコンサートのパンフレットに掲載されていたものだった。Tの貴重な財産を投じて得られたこのパンフレットは、暇を持て余していた高校生に、ひとときの有意義な禅問答をもたらした。
それから10年以上が経った今、僕がこのやり取りから学べる要素は、次の2つである。
①無茶苦茶な内容でも、迫力=情熱で押し切ることが可能である。
②「浜崎あゆみは現代のジャンヌ・ダルクか」みたいな文言を書けるのは、ある種の勇気である。
いつの間にか僕は、ある程度の分別を身に着け、「浜崎あゆみは現代のジャンヌ・ダルクか」なんてことを言わない大人になっている。別に思いつかないのではなく、そんなことを言うや否や、馬鹿にする顔が浮かぶからである。だいたいオヤジ世代のオヤジさん達であるが、その顔のひとつには、もちろん自分の顔も含まれている(頼むから僕の偏見を嗤ってくれ)。
でも、こうやって映画ブログを始めたからには、僕はいつの間にか捨て去った勇気を、もう一度取り戻さなければならないのではないか。12月中旬からずっと考えて来た「スターウォーズがなぜ面白いのか」という問いにしても、「浜崎~」の問いと変わらないのである。真面目な顔をして、人生の上では意味がなさそうなことに傾倒している。ただ、それだけの話である。
しかし、本来映画や本というのは、その程度のもの、くらいに思っていた方が風通しが良くて、楽しいのではないか。スクリーンに投影された単ある絵に、あるいは紙の上のざっと並んだ単なる文字群に対して、それほど気構える必要もあるまい。勝手なことを言って、馬鹿にする奴には馬鹿にさせて、ルンルンと楽しく過ごせれば、それでいいのである。必要なのは、ちょっとした勇気。恥を捨てよ、自分。そして「恥を知れ」と言う輩を情熱によって押し切るのだ。
新年の抱負はずばりこれである。