映画『リアル・スティール』 興奮と感動、ロボット・ボクシングという新ジャンルに望むものが全てある。
ショーン・レヴィ監督 2011年 アメリカ
◆王道ボクシング映画!
素晴らしい! 王道ボクシング映画、あるいは、ストライクど真ん中の父子映画。いやはや、王道とは良いものである。一度は子を捨てた父親が、子のために再びロボット・ボクシングで闘う、という話。
本作を観る人は、父のチャーリー、子のマックス、そしてチャーリーの恋人ベイリーの視点を行ったり来たりしながら、この物語を眺めるだろう。僕はチャーリー5、マックス4、ベイリー1くらいの割合で観ていた。
◆ダメ父チャーリー。男って、どうしようもないね。自分のプライドに操られているよ。
父チャーリーは、ロクデナシの父親もとい男で、昔は“人間ボクシング”の選手だったが、冴えない選手生命を終えた後は、母と子を置いてきぼりにして、ロボット・ボクシングに明け暮れる日々を送っている。しかし、弱い。その都度、闘いに自分のプライドを賭けながら、勝利と敗北に一喜一憂し、傷つき続けている。闘いこそがチャーリーの全てだが、彼は闘いによっては救われない。しかし、それでも、チャーリーが自分の承認を求める場所は、闘い以外にはないのだ。
こういう危うさは、おそらく男性特有のモノだろう。ジェンダーとしての男。こういう映画を観ると、僕は自分が男であることを、いや、男でしかないことを痛感する。嫌な感覚だ。僕は、競争を得意としていないし、相手に勝とうとすることが大きなモチベーションとなることもない。闘いなんて嫌いだ。かといって、己に勝つ、なんてストイックなこともない。そんな人間でも時々、胸の奥でプライドが疼く。自分を満たしてくれ、とプライドが言う。それを拒否することはできない。拒否することは、自分を拒否することに等しいのだ。だからこそ、
「俺はこんな男でしかない。お前は俺といるより、ずっと幸せになれる」
とチャーリーがマックスに言うとき、僕たちは、その怒りの表情とは裏腹に、彼が自分の情けなさに深く傷ついていることを知る。怒りながらも、実際は許しを乞うている、と言ってもいいかもしれない。こんな自分で済まなかった、許してくれ、と。
しかし、マックスは許さない。「僕の望みは一つ。僕のために闘って」。どうしてそうなるのだとツッコむことも忘れ、マックスの茫然とした顔をしみじみと眺める。嗚呼、もうあんた、闘うしかないよ。今回は言い訳することも、逃げることもできないぜ。ここで一念発起して、闘ってやろうとするのが、男の馬鹿なところだと思う。どうしようもない馬鹿。同情すべき馬鹿。もちろん、自分のことでもある。逃げられるなら、逃げたいよね。
◆可愛いマックス
少年マックスは、とびっきりチャーミングだ。健気で、まっすぐで、生意気で、おまけにぴょんぴょん跳ねている。スターウォーズ・エピソード1にアナキン役で出演していた少年、ジェイク・ロイドを思い出した。可愛い。
マックスの魅力を増幅しているのが、彼が廃品置き場から見つけ出したロボット・ATOMだ。ATOMに、人間の動きを真似るシャドー機能がついている、という設定は非常に効果的である。シャドー機能によって、ATOMには何かしらの意志があるように感じられる。チャーリーの動きを真似て、一緒にダンスをするシーンは本当に素晴らしい!
◆お前はロッキーか。ATOM=チャーリーの闘い
ATOMは、圧倒的な力を持つ王者ゼウスに挑むのだが、ここからのATOMはほとんど完全にロッキーである。何度も何度もダウンを奪われ、その度に「立て!ATOM!」と叫ぶマックスとチャーリー。そして、その声を聞いたかのように、ATOMは再び立ちあがる。嗚呼、あのテーマソングが脳内に流れ込んでくる。パッパーパパパーパパパーパパパ…。不屈のロッキー魂は、この小柄なロボットにも宿っていたのだ。
ATOMは驚異的な耐久力を発揮する。ATOM以外のロボットたちは、ボコボコに殴られて首がふっとんだり、足がもげたりと散々だったが、さすがはATOM、そんなことはない。いわゆる主人公補整というものだが、そんなご都合主義にも肩入れしてしまうほどに、すでにこの時点で心は取り込まれているのだ。気づけば自分も叫んでいる。
「立て、 ATOM! 立て! ATOM!」。
音声機能を破壊されたATOMは、シャドー機能に頼って動くしかない。ATOMはチャーリーの動きを追うことにより、辛うじて闘い続けることができる。ここで視覚的にも物語的にも、ATOM=チャーリーとなり、チャーリーはロッキーとなる。あのテーマ・ソング再び…。パッパーパパパーパパパーパパパ…。
「闘え! チャーリー!」
チャーリーは、本作で唯一の勝利を得る。王者ゼウスに対する勝利と、そして自分のプライドを賭けた闘いでの勝利と…。マックスはそれを観て、またぴょんぴょん跳ねているのだった。