僕は映画狂、というより、映画を語りたい今日

もしかすると、映画そのものよりも映画館の暗闇のほうが好きかもしれない。

カオナシの中にいた人は、今どこで何をしているのか(『千と千尋の神隠し』)

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 カオナシの中――ぞっとする。

 カオナシは、現代人の孤独の象徴とか、人間の欲望そのものを表現したものだとか言われる。あれほど総合的な映画なのだ。様々な解釈が可能だろう。凶暴な外見とは裏腹に、絞り出すような声で「サ、サビシイ…」と漏らす声は、彼が金縛りのような孤独の中にいることを僕たちに知らしめる。

 カオナシは次々と他者を呑みこむ。どうしてだろうか。カオナシは空っぽである。それ自体では何も欲していない。しかし、人間が「他者が欲するがゆえに他者が欲するものを欲す」ように、カオナシも他者が欲するものを欲す。

 最終的にカオナシは何を欲したか? カオナシは自己が他者に欲されることを欲した。根源的な承認を欲したと言い換えてもいい。他者に欲されることで、空っぽな自己が価値を持つことを欲したのである。しかし、カオナシは最も欲しかった千尋の承認を得られず、この力関係がカオナシを半ば強制的に変化させるきっかけとなる。

 だが、僕が「千と千尋の神隠し」をはじめて観たときに感じたのは、このような解釈に基づく恐怖ではなかった。カオナシが不気味なのは、現代人の孤独が描かれているからでも、人間的欲求がグロテスクに表現されているからでもない。

 真の恐怖は、カオナシの口の奥である。あの牙とあの長い舌。垂れて落ちる唾液。そして、あの喉の奥の暗闇! あの暗闇の深さは何なのだろう。吸い込まれた先には何が待っているのか。

 そして下の発想に至ったときに、恐怖は頂点に達した。

カオナシの喉からはじめて出てきた人は、きっと笑っていたはずだ」

 カオナシが欠落だとするなら、次のような物語が少なくとも想定可能である。なぜから、欠落にはその定義上、欠落していなかった時代の物語が刻印されているはずだからだ。

 カオナシは、おそらく原初の時点では、今のような姿ではなかった。つまり殻だけではなかったはずである。そのカオナシを、完全体カオナシと呼ぶと、完全体カオナシには中身があった。というより、中身と殻が一体化していた。

 しかしある時点で、何らかの拍子で、中身と殻が分離するときが来た。その中身はカオナシの口中の闇から抜け出てきた。カオナシが吐き出した彼/彼女は、そのときどんな顔をしていたか。それは不気味なほどの笑みをたたえていたに違いない。そしてそのまま振り返らずに立ち去ったのだ――後ろに顔を失くしたカオナシを残して。

 カオナシは、欠落である。カオナシには輪郭しかない。闇を抱える輪郭である。その闇の部分にいたはずの人は、今どこで何をしているのか。カオナシがおぞましい姿を呈し、ひたすら他者の承認を欲しているそのときに、彼はその光景を遠くに眺めて、また不気味に笑っているのではないか。

 そう思うと、恐ろしいのである。僕もまた、ひとつの欠落だとするなら、僕の喉から抜け出ていったのは、いったい誰だったのか。彼は今どこで何をしているのか。僕が孤独や虚無に沈み込むとき、彼はいったい何をしているのか。僕が絶対にそうできないような仕方で、高らかに笑っているのではないか。