僕は映画狂、というより、映画を語りたい今日

もしかすると、映画そのものよりも映画館の暗闇のほうが好きかもしれない。

映画『地球、最後の男』 深い孤独が他者とつながる逆説

ウィリアム・ユーバンク監督 2011年 アメリカ

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◆役立たずの教訓

1.使用上の注意

  この映画、場合によっては眠くなります。

2.最近、孤独な場合

  涙が出るかもしれませんが、身体に害はありません。

3.僕らは愛の花咲かそうよ(選曲が古い)

  J-POPの軽い歌詞に苛立つ方にはおすすめできません。

 

 ◆人は人を渇望する。

 宇宙ステーション滞在中に、地球上の人類が絶滅してしまい、人類最後の一人となった宇宙飛行士の孤独な日常を描く。全ての人類の記憶がつながっていき、巨大な機械生命体へと引き継がれる。

 映像を複雑に組み合わせることにより、本来は別々のものの間に、あり得ないはずのリンクを形作る。テレンス・マリック監督の『ツリー・オブ・ライフ』と同じような手法が、本作でも使われている。宇宙ステーション内の日常と、南北戦争や主人公の心象風景が、断片的に輻輳して示されることによって、それらをつなぐものの存在(=機械生命体として具現化されている)が、少しずつリアリティを増していく。

 地球の人類が絶滅し、宇宙飛行士が孤独に沈む描写が素晴らしい。他者を渇望するあまり、かつての恋人と幻覚上でデートをする。美しい夕日、彼女のキス。宇宙ステーションの窓に張り付き、青く輝く地球に頬をつけて眠りにつく。宇宙飛行士は、通常の感覚でいうと、半ば狂気に落ちている。

 宇宙飛行士は、他者を求めるあまり、新しい次元にまで到達する。ここでは、記憶が新しい形で定義されている。記憶とは井戸水のようなもので、一つ一つの井戸を掘っていけば、はるか地底で、水源のようなものに到達する。つまり、記憶は集合的なもの、と定義されている。だから、人の記憶が、自分の記憶になる。宇宙飛行士は、南北戦争を生きた兵士の日誌を読み、その兵士と記憶を共有するに至る。宇宙ステーションの壁という壁に南北戦争の様子を描いていくさまは、ラスコーの壁画の作成風景のようだ。自己とは別の存在と接続したいという人間の渇望が、吹き出るようにして形になっていくことに、感銘を受ける。なるほど、人間とはそういうものではないか。

 

◆人類の終わり方

 結論はやけにあっさりしている。一言で言うと、「人類をつなぐもの、うん、それが愛だよね」。平凡なのは別にいい。平凡こそ深淵なのかもしれない。しかし、見せ方がそれまでとあまりにも違うので、そのアンバランス感に何かしらの意図があるのでは、と勘繰ってしまう。

 どのように見せ方が違うのかと言うと、上述の通り、序盤と中盤の見せ方は非常に複雑で、ある意味では分かりにくく、しかしそれが効果を上げてもいる。しかし、結論は機械生命体が、言葉で直接「これが結論だよ」としゃべってくれるのである。ご親切なことである。Siriかと思った。この見せ方の意図は何なのだろうか。僕は次のような可能性を考えた。

1.途中で予算不足になった

2.途中で製作者が変わった。

3.実は、愛を皮肉りたかった

 全部、想像するとそれなりに面白い。特に3は、この映画の解釈の仕方としても面白いと思う。「人間ってこんなものだ」「お前たちが愛、愛と言っているものは、実はこの程度のものに過ぎないんだぜ」。実際、僕は、人類の終焉とはこのような形で起こるのではないかと思った。つまり、「今・ここに生きている」ことを蔑にして、記憶こそが生だという認識することが、結局のところ、生きるということの価値を否定することにつながるのではないか。しかし、実際は、終盤に美しい映像が次々と投入されることからわかるように、製作者の意図としては、やはり愛を強調したかったのだろう。

 

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