僕は映画狂、というより、映画を語りたい今日

もしかすると、映画そのものよりも映画館の暗闇のほうが好きかもしれない。

映画感想に意味があるとしたら、こういうこと~時には赤ちゃんみたいに笑ってみたい~

【一言まとめ】映画の感想を書くことに意味があるとしたら、それは日常が変わるかもしれないからではないでしょうか(自信なし)。

 

◆赤ちゃん動画を観てほしい

 この赤ちゃんのように感じるためには、どうしたらいいのか。生まれつき視力が弱かった赤ちゃんが、メガネをかけて周りを見渡したときに、「歓喜ってこういう表情だったんだ」と改めて知らしめるような表情で笑う(35秒間)。


メガネかけ「世界が変わった」赤ちゃん piper can see!

  大切なことは、こういうことだと思う。赤ちゃんにとって、おそらくこの瞬間は決定的だった。メガネをかける以前と、メガネをかけて驚いた以後の世界は、おそらく全く違っている。赤ちゃんは単に驚いて喜んだのではない。母の顔を鮮明に見たことは、赤ちゃんの生を以前と全く違うものへと変えてしまったのである。

 大人にとって、驚き、世界が変わることが可能か。そもそも大人になると、この赤ちゃんのように世界に驚くことすら、極めて稀である。たとえ新鮮さを感じたとして、曲がりなりにもルーティーンを作り上げてきた大人にとって、それは日常を離れることでしかない。ひとときの新鮮さを楽しんだとしても、それが身体の組成を変えることはない。新鮮さは記憶BOXにそのまま放り込まれ、また大人は同じ日常に戻っていく。日常は何も変わらない。

 自分は赤ちゃんのように笑うことは可能なのか。可能である、はずだ。聞くところによると自分にも赤ちゃんだった時代があったわけだから(信じられないが)、映像の赤ちゃんのように世界の新鮮さに打ち震えた経験があったはずである。それが、たかが三十年ほど生きただけで、この世のほとんどを知ったような気になっている。

 

◆映画の感想を書く意味

 赤ちゃんはメガネをかけるだけで良かったが、大人が新鮮さを身体に取り込むのには、もう少しシステマティックな取り組みが必要なのかもしれない。例えば、小説の「異化」という手法は、その一つとして位置付けることができる。

 慣習化は仕事を、衣服を、家具を、妻を、そして戦争の恐怖を蝕む。……そして芸術は、人が生の感触を取り戻すために存在する。それは人に様々な事物をあるがままに、堅いものを「堅いもの」として感じさせるために存在する。芸術の目的は、事物を知識としてではなく、感触として伝えることである。(シクロフスキー「手法としての芸術」)

 夏目漱石が「吾輩は猫である」で猫の視点から明治を描いてその「ヘンテコさ」を強調したとき、普段は意識することのない日常の「ヘンテコな感じ」が感触として感じられる。これは特に小説に限ったことではなく、映画でも十分に起こり得ることである。

 ただ、この異化という手法が完成するためには、映画を製作する側だけでなく、映画を受け取る側の営みが不可欠である、と思う。受け取った「ヘンテコな感じ」を消化するための営み。もしそれが、映画の感想を書き続けることで、部分的にも達成できるのであれば、映画鑑賞は何かしらの目的志向性を持ち得ることになる。数日前に「映画を観ることには何の生産性もない」(下記リンク)というようなことを書いたばかりだが、そういう仄かな可能性をどこかで意識しつつ、馬鹿な感想を今年も書いていきたいと思う。

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