僕は映画狂、というより、映画を語りたい今日

もしかすると、映画そのものよりも映画館の暗闇のほうが好きかもしれない。

【ハミングバード】罪悪感に押しつぶされた二つの人生。彼らのひと夏の恋。【感想】

【一言まとめ】罪悪感に苦しむ2人の男女が落ちるひと夏の恋。彼らが下す正反対の決断。切ない映画です。

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 基本的に、アクション映画には「思考停止」を求めている。どかどか殴り合い、ばんばん撃ちあっているシーンが、意識を麻痺させてくれる。自動思考に強制ストップがかかり、呆けて眺める、これがアクション映画の鑑賞スタイルである。たまに飲み屋さんに行くと、どうやらお酒に同じことを求めているらしいサラリーマンが一人お酒に酔っている。アホみたいに笑っている場合もある。僕も映画を観てアホみたいに笑う。ちょっとしたシンパシーが形成される瞬間である(>サラリーマンさん 明日もお互いにファイト1発です!)。

 アクション映画に「思考停止」を求める者にとって、「ハミングバード」は期待を裏切る映画である。ジェイソン・ステイサム=思考停止アクション映画」だと思い込んでいた僕は、不意を突かれた形になった。登場人物は二人。僕でなく彼らが「思考停止」している。過去に犯した罪による罪悪感で押しつぶされてしまいそうな日々を、お酒と戒律に自分を溺れさせることによって、なんとか凌いでいるのだろう。彼ら二人が出会い、ほのかに慰め合った後、ふたたび別々の道へ進んでいく、という話。

 物語の基調になっているのは、「無垢」と「穢れ」の対照である。ステイサムは、特殊部隊として戦争に参加していたころ、報復のために無関係な民間人を5人殺した。その姿を無人偵察機「ハミングバード」によって捉えられていたため、いまも軍法会議から逃げ回っている。ステイサムがハミングバード(=ハチドリ)の幻影を見るシーンがあり、「俺は殺人機械なんだ」と涙を浮かべるシーンもある。ステイサムは酒を煽る。穢れている自分から逃れるために。あるいは、それを見咎める神の視点(ハミングバードによって象徴されている)から逃れるために。

 結論から言うと、ステイサムは穢れから逃れられるわけではない。むしろ、積極的に穢れている自分を受け入れることによって、ある種の救いを得ることになる。きっかけになったのは、ある少女の死である。「レオン」もそうだが、なぜかオッサンと少女という組み合わせは、「穢れ」と「無垢」という図式と重なりやすい。詳細は語られないので想像するしかないが、おそらく少女は、ステイサムにとって庇護の対照であり、庇護することがステイサムにとって重要なことだったのだろう。

 しかし、少女は殺される。しかも、無垢とは程遠い形で。逃げ切れないままマフィアにつかまり、クスリ漬けにされて逃げられない状態にされたあげく、売春で暴力を振るわれて命を落とすのだ。本作と同じく、「オッサンと少女」という図式を持つシリトーの短編「アーネストおじさん」にはこんなくだりがある。

 彼はただ、足元から大地が全て去り、恐ろしい津波が彼の心に押し寄せるのを意識していた。そして我慢ならないあの空虚なものが、彼の内部のどことも知れぬ小さな一点から流れ出るのを感じた。それから彼はあらゆるものに対する憎しみでみたされ、ついで、自分のまわりでのあらゆる動きに対して激しい憐れみをいだき、そして最後に自分自身に対するいっそう激しい憐みの気持ちでいっぱいになった。彼は泣き叫びたかったが、それもできなかった。彼はただこの恥辱から歩き去ることしかできなかった。

 ステイサムは「アーネストおじさん」より過激なので(当然)、「歩き去る」代わりに、少女を殺した金融マンを殺しに行く。つまり、より穢れる方向を選ぶことになる。ステイサムとひと夏の恋に落ちる修道女との対比によって、この選択はより鮮明に印象付けられる。彼女も幼いころ、自分をレイプした体操教師を殺している。彼女は、ステイサムと互いに癒し合った後、アフリカ行きを志願する。つまり、穢れてしまっている自分をより浄化する方向へ進むのだ。

 正反対の方向へ進むステイサムと修道女がいつまでも同じところにいられるはずはない。そのことは理解していながら、互いを必要としていた二人が別れるのを見るのは悲しかった。きっと、これからも二人は苦しみ続けるだろう。もういいじゃないか、と言いたくなる。なんだか真面目すぎないか。もっと適当でいいじゃないか。人生のどん詰まり、というか、人生はどん詰まり。苦しいものなのだ。

(監督:スティーヴン・ナイト イギリス 2013年)