僕は映画狂、というより、映画を語りたい今日

もしかすると、映画そのものよりも映画館の暗闇のほうが好きかもしれない。

怠けものだけが映画を観る。(年末の挨拶)

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 「なぜ映画を観るのか」という問いがあるとして、それに対して答えるのには、ある種の「自分語り」をするしかない。なぜなら映画を観る必要なんてないからだ。何の生産性もなければ、何の教訓もない。だから、真面目な顔で「なぜ映画を観るのか」と言われたら、モゴモゴしながら「えっと…、いや大した理由なんてないんだけどさ」と話を始めるしかない。

 怠けものは映画を観ればいいと思う。映画は怠惰な娯楽である。自分から生み出さなくても、楽しみが与えられる。他の退廃的な娯楽――パチンコ等――でも、もう少し頭を使うではないか。例えば、球を打ち出す角度を調整するとか。

 それに対して、映画は二時間ボーッとしているだけである。親は子がテレビを好むことを嫌がるが、映画も同じようなものだと思う。どちらも「自分から何も生み出さなくても、楽しむことができるんだよ。だからもっと怠けなさい」と言ってくる。

 だから「なぜ映画を観るのか」という問いに対しては、「怠けものだから」と答える他はない。あるのは、「自分がどのような怠け者のなのか」を示す「自分語り」だけである。実際、僕は怠けものである。映画にも、基本的に思考停止を求めている。何も考えずに2時間観られる映画。それが理想の映画である。「考えさせる映画だと? そんなモノは1ミリたりとも求めていない!」

…となると、こうやってブログに映画評をせっせと書いていくのは何なのか。「それはエクスキューズだ」と言うしかない。もちろん「言い訳」なんて言うとカッコ悪いから、「エクスキューズ」という大げさな言葉を使うのだ。結局のところ、映画評というのは、その程度のモノだと思う。怠けものの映画ファンが、自分が怠けものであることを隠したいとき、映画評を書きはじめるのである。

 世に多くある映画ブログの主に言いたい。「もう少し生産的なことをしませんか?」と。貴方たちは怠け者に過ぎない。映画に血道を上げている場合ではないのだ。人生にはもっと他にやるべきことがあるだろう。2時間も呆けている間に、いったいどれほど生産的なことができるのか。2016年はそういう年にしませんか。

 しかし、貴方たちは2015年がそうだったように、きっと2016年もやはり「エクスキューズ」に拘泥するのだ、そして僕も。嬉々として2時間呆けに行き、「エクスキューズ」としての映画評をせっせと書く。何も生み出していなくても、何の役に立っていなくても、楽しければいいじゃないか。ポップコーンが美味しかったじゃないか、なんて嘯いたりして。

 8月中旬からはじめた当ブログも、これで68個目の「エクスキューズ」となる。なるほど言い訳に言い訳を重ねるのは楽しい作業である。これほど退廃的な娯楽も少ないだろう。僕の願いはひとつである。そしてきっと、他の退廃者たちの願いもここに集約されるのではないか。

「この『エクスキューズ』に共感してくれる怠けもの、募集中」

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全国の怠けもの様へ。

 年の暮れですね。今年はどうもありがとうございました。

 来年も怠けもの同士、どうぞ宜しくお願い致します。かしこ。