僕は映画狂、というより、映画を語りたい今日

もしかすると、映画そのものよりも映画館の暗闇のほうが好きかもしれない。

スターウォーズはなぜ面白いか。最終回答(前編) 【スターウォーズ祭り開催中】

 「スターウォーズはなぜ面白いのか」という問いに対する答えを求めて、関連本などを漁りながら、幾つかのことを書いてきたけれど、その最終回(前編)。これが終われば、いよいよ「フォースの覚醒」へと進みたいと思う。

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 さて、「スターウォーズはなぜ面白いのか」。スターウォーズをはじめて観てから数年後に、ある本でこんな一節に出会った。この一節で真っ先にスターウォーズを想い出した。

 大地とは、立ち現れるということが、立ち現れているものをすべて、しかも立ち現れているものとして、そこへと蔵し返す所のことである。立ち現れているものにおいて、大地は蔵するものとして現成する。(ハイデガー『芸術作品の起源』)

 やけに難しく書かれていて半分以上意味がわからないが(!)、とりあえずまとめると、要するに僕たちが大地を知る方法が書かれている。僕たちは大地を大地として知るのではない。スカイツリーが建っている。堂々と建っている。まさに「そこに」堂々と建っている。堂々と建っている、まさに「どこに」?―― このような経路をたどったのち、そのスカイツリーが堂々と建っている、まさに「そこ」のことを大地と知るのである。一言で言うと、スカイツリーを通して僕たちははじめて大地を知る、まあそういうことだ(と思う。自信はないけれど)。

 この一節でスターウォーズを想起したのは、はじめて観たときの、あの感動を想い出したからである。

「なんて広い映画なんだろう!?」

 広さ。圧倒的な広さ。映画の美点を表現するのには、少し奇妙な言葉ではあるが、スターウォーズにこれほどピッタリな言葉もないのでないか。

 なるほど、スターウォーズが映している映像の物理的な広さ自体は、他の映画とほとんど変わらない。撮影で使ったカメラが同じであれば、物理的な広さは同じである。しかし、例えば、こういう感覚はないだろうか。ずっと住み慣れた家にいるとき、僕は家という閉空間にいながら、窓の向こうの空間の広がりを、何となく感じている。例えば、歩きなれた街を歩いているとき、僕はある限定された狭さと狭さの間をただ移動しているに過ぎないのに、今歩み進んでいる道が、この先ずっと長く続いていることをどこかで感じながら歩いている。あるいは、隣にそびえる建物の向こう側に、もっと広く空間が広がっていることを何となく感じながら、その建物を眺めている。

 逆に、土地勘のない土地に行ったときの、あの空間の狭さは何だろう。見知らぬホテルの一室は、その一室が世界の全てだと思えるほどの息苦しさがある。窓の外には光学的な景色が広がっているだけで、テレビ画面とほとんど変わりない。物理的に広がっているはずの空間も、身体を通さなければ、そこに何の広がりも感じ得ないのである。

 そのような認識を持った上で、本の一節に戻ろう。僕たちは、物理学によって宇宙が無限の大きさを持っているのを知識としては知っている。しかし、本当に宇宙の広がりを感じるためには、僕たちが大地を知るのと同じ経路を通らなければならない。つまり、「宇宙とは、立ち現れるということが、立ち現れているものをすべて、しかも立ち現れているものとして、そこへと蔵し返す所のことである」。そして、僕たちはスターウォーズに出会った。ルークがタトゥイーンの二つの太陽が沈むのを眺めるとき、僕たちはその太陽の向こう側に、遥かに広がる銀河があることを感じている。スターデストロイヤーがこちら側から向こう側へと、クジラのように悠然と進むとき、僕たちがその先に大海のように広がっている宇宙空間があることを感じている。

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 一言でまとめよう。「スターウォーズはなぜ面白いのか」。それは、スターウォーズを通して、宇宙の広がりを感じたからではないか。それは、本物の宇宙ではない。しかし、正確に言うと、それまで僕たちは宇宙なんか、知りもしなかったのだ。ルークを通して、デススターを通して、ライトセーバーを振るときのブンブンというサウンドを通して、フォースを感じるジェダイを通して、それが戻っていく場所として宇宙を定義して、はじめてそこが宇宙だったことを知ったのだ。それはもしかすると、ギリシャ人が、夜空に浮かぶ光点と光点を結ぶことで神たちに生を与えたのと似ているのかもしれない。ギリシャ人たちは、宇宙に神がいると考えたのではない、神たちがいるところ、そこが彼らにとっての宇宙だったのだ。(後編に続く)