僕は映画狂、というより、映画を語りたい今日

もしかすると、映画そのものよりも映画館の暗闇のほうが好きかもしれない。

白鯨と闘う前に気になる「あれ」

  2016年の初映画は「白鯨との闘い」に決めていたにも関わらず、二の足を踏んでいる。ふとした瞬間に目に飛び込んでしまった事前情報に、恐れを抱いているのである。僕がいちばん苦手としている、あれ、があるらしい。

一応ネタバレになるので、閉じます(僕も観ていないけれど)。

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バルタン、ごめん。

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 バルタン許してくれ。前の記事で、君を悪役の代表のように書いたが、その後ふと気になって調べたら、君たち一族が意外にも苦労人であることを知った。簡単に言うと、

①マッド・サイエンティストのせいで故郷の星が消滅
宇宙旅行中の20億3000万人のバルタン星人が難民化
③地球を発見して移住を目指す。
ウルトラマンに宇宙船を爆破されてほぼ絶滅。

 という悲劇の過程をたどったことが分かった。実にすまなかった(参考wikipedia)。

  ウルトラマンへの復讐の念に駆られた4代目は、すでに地球通である。野球の比喩を使いこなしている。ウルトラマンを倒したい一心で、地球のことを研究したのだろう。

ビルガモが倒されると巨大化してウルトラマンの目の前に現れ、「勝負はまだ一回の表だ」と復讐を示唆する台詞を残して飛び去るが、背後からスペシウム光線を浴びせられ、白い十字光を発して消滅。生死は不明。

  ちなみに、スペシウムはバルタン星人にとって、最も苦手な物質だったようだ。それを背後から浴びせかけるとは、ウルトラマンも容赦のないことよ。「白い十字光」を発しながら、エヴァの使徒みたいな消滅の仕方をして、バルタンもさぞかし無念だったろう。

観客を置き去りにする転身ぶり(映画『フルスロットル』の感想)

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 題名には見覚えがないはずなのに、序盤でオチまでわかってしまって、自分スゲー、となっていたのだけれど、あの超人アクション映画『アルティメット』のリメイクだった。まあ、ほとんど忘れていたので存分に楽しめたけれど・・・。

 無重力アクション、と銘打たれているのだが、「無重力」度合は元祖のほうが上である(たぶん)。『アルティメット』を見たときは軽業師のようなアクロバティックな身のこなしに随分と感動したが、今回はそれほど珍しいと感じなかった。アクション映画のレベル自体が上がって目が慣れてしまったのかもしれない。

 見どころは、「観客を置き去りにする転身ぶり」である。一つ目は主役2人の「転身ぶり」。いわゆる「バディもの」の定番で、主役のふたりは仲が悪いところからスタートするのだが、どこで和解したのかわからないくらい、仲良しになるペースがはやい。えっと・・・、そのぉ・・・、人ってそんなに簡単に分かり合えたっけ?

 だが主役2人の「転身ぶり」も、悪役の大将に比べたらまだ甘いものである。序盤と終盤でこれほどまで位置づけが変わる登場人物も珍しいのではないか。地球を侵略しに来たバルタン星人がいつの間にか正義の味方になって地球を守っている。それもただ守るだけではない。ウルトラマンと肩を組んで闘うのみながらず、国連事務総長になって世界平和を実現しようとする、みたいな感じ。ラストではしっかりとヒーロー顔になっている。バルタンさん、序盤で無差別殺人をしていたんだけど大丈夫かなー。

 映画を見るたびに、こうした「荒唐無稽さ」が好きになってくる。出来のいい映画もいいけれど、出来の悪い映画(失礼!)もいい。隙があるのは、娯楽にとって必ずしもマイナスにあらず。この映画がそうだとは思わないけれど、唯一無二の欠点を持つ、というのも逆説的に長所になるだろう。

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寒い朝の戦闘モード

  天候こそ、人の性格を決めるんじゃないか、と思うことがある。いや、もっと正確に言うと、肌にあたる風の触感。あれこそが性格を決めるのではないか。

 この時期、日の出直前の真っ暗な朝に出ると、街も家も何もかもいつもよりもずっと静かで、ただでさえ寒いのに無音で余計に風が冷たく感じてくる。

 特に意識していなくても、なんだか少し戦闘的な気分である。寒さとの闘いである。こちらは攻める気がなくても、寒さは無表情でこちらに攻めてくる。ありとあらゆるところから侵入してくるのは、本当に勘弁してほしい。特に首筋とか。ある程度は衣服の力も借りながら、しかし、気持ちも無意識の内に迎撃態勢を取っている。ロシア人ならウォッカがあれば十分に戦いぬけるのかもしれないが、僕にはウォッカがない。だから生身で闘う。迎え撃つ。さあ来やがれ寒さのやろう。

 普段はほとんど戦闘的な気分になることがないので新鮮な気分である。ロッキーのテーマが流れてきそうだ。シャドーボクシングに卵一気飲み。僕は負けないよ。何回でも立ち上がってやるんだ、ぱぱーんぱーん、ぱぱーんぱーん。しゅっしゅっしゅ。

 気のせいか眉毛も濃くなってきて、眼光が鋭くなってきた気がする。世界を相手にただ一人正義を貫き通してやろうかという気概さえわいてきたときに後ろから、

「こんにちは」

と爽やかな声が聞こえきた。小柄な女性が微笑んで手を振っている。僕は依然として太い眉毛のまま「んんん?」と男らしく振り向いたのはいいが、目の前にいるのがアラスカヒグマではないことに動揺を隠せぬまま、女性の顔を一瞬じっと眺めた。やっぱり微笑んでいる。一気に解けていく戦闘モード。そして起動した緊急モード。なんだ、何が起こっているんだ。

 僕は手を振った。とりあえず手を振った。少しだけ笑顔を作ってみる。眉毛はもう尻込みしながら恥ずかしそうに身をよじっている。

「こんにちは」

 なんだかわからないけれど、とにかく挨拶を返した。記憶の中の顔面データを検索中。ダレナノダアナタハ、ダレナノダアナタハ。

 急に怪訝な顔になって、改めて僕の顔をちらりと見る女性。今までその女性が僕を見ていなかったことに、このとき初めて気づいた。振り向くと後ろにその女性と同じくらいの年の男性が手を振っていた。再び戦闘モードへ。孤独な戦いは今日も続く。

それ、僕のアイディアでしょ。

  それ、僕のアイディアでしょ、と言いたくなることがある。実装では先を越されたが、考えたのは僕が先だった。すごいのは0から1を生み出した僕であり、すでにある1を集めて100にしたあの人ではない。

 もちろん実態としては負け惜しみに過ぎない。単に先を越されたのだ。負けを認めなければならなし、アイディアを持つことは実は大したことではない。アイディアは天才にも凡人にも平等に訪れる。アインシュタインが下のように言っている。

私にはよいアイディアが浮かびます。他の人もそうです。ただ私の場合、幸運だったのはそのアイディアが受け入れられたということです。

 アインシュタインは「幸運だったのは」なんて言っているが、万人に平等に訪れるアイディアに肉体を与えて、その存在の確からしさを示すことが、天才だけに許された業なのだと思う。

 何が言いたいのかと言うと、この記事の「垂直の森」というマンション、僕もアイディアだけは思いついていました、と言いたいのである。写真を見て自分が造ったのかと思ったが――というのは嘘だけれど、自分が建築家になったらこんなものを造りたがるだろう、と思った。今の感覚を前提にすると奇妙かもしれないが、衣食住に関わるコンセプトは、一周回ってこのように自然と人工のハイブリットへと行き着くような気がする。


暮らしのエコナビ:イタリア・ミラノのマンション「垂直の森」【パナソニック公式】

 いつだったか、もう10年以上前になるが、同じようなハイブリットをレゴで作った。そう、レゴ。仮に同じアイディアを持っていたとしても、あちらはマンション、こちらはレゴである。もし裁判で僕のアイディアを盗んだのだと主張するならば、その証拠として間違いなくこのレゴ・ハイブリットを提出するだろう。

「裁判長、見て下さい。垂直の森とこのレゴ・ハイブリッドは、自然と人工の共存、という次元を超えて、自然と人工の融合がテーマになっています。そこに新しい地平が広がるのではないか、そう考えたわけです。レゴ・ハイブリッドは、自然から離れた人類が、自然に帰っていくことの象徴ではありません。全く逆と言っていいのです。自然から離れたかに見える人類が、実は人工を突き詰めた先にもう一度自然に発見するだろう、そのとき自然は自然を超えて、人工は人工を超えて、ひとつの新しい地平となって融合するのです。以上のことから、わたしは私のアイディアを盗まれたと主張します。お分かりいただけましたか?」

「はい。もちろん分かりません」

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映画を観る代わりに。

 映画を観ることができない状況なので、映画を観ているのと同じような別のことをしたい。何だろうか。あの映画について書くことだろうか。

 何も見えない暗闇の中、なんだかがさがさ動く音がする。続いて木を削るような音。カタカタカタというタイプ音。何かがいるのだが、さっぱりわからない。依然として画面は暗いままだ。、またカタカタカタというタイプ音。何かを打ち込んでいるようだが、ディスプレイは見当たらない。

 ガタっと大きな音が鳴った次の瞬間、閃光が走り、一気に画面の明度が上がる。暗い部屋に強烈な光が差し込み、すべてを真っ白に染め上げる。何も見えない暗闇から何も見えない明るみへ。またカタカタカタというタイプ音。笑い声が聞こえる。誰かが笑っている。小さな声でくすくす笑っている。子どもの声だろうか。もしかすると泣いている? 老年の女性のすすり泣く声だろうか。

 すっと光が薄くなっていく。白に染め上げられた画面から、少しずつものの輪郭が浮かび上がってくる。こっちを向いて笑っている顔。固まっているようにも見える。タイプをしている手。カタカタカタ。カタカタカタ。その手はまるでそこだけが別の生き物であるかの異様に、うねうねと滑らかに動いている。カタカタカタ。カタとカタの間がほとんどなくなっていき、カカタタカカタタカカタタカカタタ、なんて音が聞こえてくる。

「いったい何を打っているの?」

 固まっていた顔が崩れる。口元が、自分の動きを確認するように動く。

「いったい何を打っているの?」

 手は突然止まり、その問いに対する答えを探しているようだった。

「いったい何を打っているの?」

「いったい何を打っているの?」

 手は急速に動き出す。カタカタと言う音は聞こえてこない。急速に動き出したのに、手は何も打っていない。手はまるで打っているかのように動くだけで、何も打たない。

「いったい・・・」

 口もその後、口ごもる。まるで喋っているかのように動くだけで、何も喋らない。

 再び、暗闇が画面を支配する。何も見えない。カタカタカタ。手が動き出す。

「いったい何を打っているの?」

自分で「ハッピーエンドかバッドエンドか」を選べる映画は、素晴らしい映画になり得るか。

  自分で「ハッピーエンドかバッドエンドか」を選べる映画があるとしよう。それは自分にとって素晴らしい映画になり得るか?

 選択肢が多ければハッピーなのかというと、実はそうでもない。人間は不思議なものだと思う。選択肢があることで選ぶ苦悩が生まれる。ある選択肢を選ぶということは、他の選択肢を捨てるということなのだ。どうして捨てたのか。今僕はハンバーグ定食を食べているが、どうしてカキフライ定食ではなかったのか(あっちのほうが美味しそうじゃないか)。

 物語に関しては、選択肢がない方が良いように思える。つまり、「ハッピーエンドかバッドエンドか」を選ぶことができる映画よりも、そうでない映画の方が優れているような気がする。どういう意味で? 考え出すと、この問いに答えるのは結構むずかしいことが分かってくる。一言で答えるとすれば、「物語を楽しむというのは、つまりそういうものなんだ」ということになるのではないか。

 どうしてあの物語は、あのように展開しなければならなかったのか。あの人はどうしてあの場面でハンバーグ定食を食べざるを得なかったのか。製作者はどうしてAを殺さねばならなかったのか。・・・などなど、物語は誰かしらの「~ねばならぬ」という理由によって進んでいく一本道である。

 むしろ、このように言い換えた方がいいのかもしれない。他の選択肢があったように見える映画よりも、なるほどこの一本道以外にはこの映画の成立は不可能だったのだ、と思える映画の方がより優れている。観る側はこの「~ねばならぬ」を読み取ることで、癒されることがある。それは、映画の一本道と、観ているこちら側に存在する一本道とが、どこか共鳴するからに違いない。