僕は映画狂、というより、映画を語りたい今日

もしかすると、映画そのものよりも映画館の暗闇のほうが好きかもしれない。

【最強のふたり】これが満たされれば、人生は幸せ確定ですね。【感想】

 こういう友人を一人でも持ったら、人生は幸せ確定だろう。片方は首から下が全く動かないお金持ちの白人老人、もう片方は健康そのものだが、フランス階級社会にあって被差別階級である黒人の青年。ハンディキャップをフックにして出会った二人は、ジグゾーパズルで隣同士のピースがぴったり合うように、相性抜群である。仲が良すぎるやり取りに、ふっと微笑んでしまうようなシーンが盛りだくさん。友情成立に一般論が存在しないことを証明している。

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◆文句なしの秀作

 冒頭のカーチェイスからして、なんだかカッコよすぎるのである。このカーチェイスは、時間軸としてはかなり後のほう、つまり二人が親密になってからのシークエンスである。音楽を流しながら、ノリノリで踊り狂う二人。警察をだますのに障害に関するウソをつくという、一般常識レベルなら眉をひそめるような行為も、二人してたいへん楽しそうである。この時点では、二人の関係の詳細などは全く分からないのであるが、只者ではない2人を、濃密な雰囲気が包んでいるのは十二分に伝わってくる。

 障害者が登場し、障害のことへの言及も多いが、障害を真正面から扱った映画ではない。また、フランス階級社会の描写はそれなりに出てくるが、それも真正面から扱った映画でもない。この辺りはデリケートな部分なので、事前の注意が必要だろう。むしろ、障害や階級社会を背景にして、何かしらハンディキャップを持った二人が、そのハンディキャップを出会いのきっかけとして、あるいは友情を深める契機として、自然に活用していく逞しさを見せる映画である。

 二人のあいだに、はじめから終わりまで存在しない要素がある。それは同情である。

 白人でお金持ちの老人であるフランソワ・クリュゼは、自覚するほどに明確に、同情を拒否している。これまでの人間関係で同情に辟易している、というのが、正確な言い方かもしれない。介護経験もなければ、これまた一般常識レベルなら、どう考えても介護者にふさわしくない乱暴者のオマール・シーが、介護者として選ばれた理由はただひとつ、彼はフランソワ・クリュゼに同情しなかったからだ。上述のように、同情がいらないことは、これは友情の一般論でもなく、もちろん介護-被介護における一般論でもない。ただ二人のあいだには、それが不要だった、ということなのだろう。

 それにしても、オマール・シーが、

「ほら、投げかえしてみろよ」

とフランソワ・クリュゼに雪玉を投げつけるシーンなどは、こうやって状況を書き記すだけなら、むしろ腹が立つような光景であるが(クリュゼは投げ返すことなどできないのは彼も承知のはずだ)、映画の中ではこれも、痛快な友情のひと場面として難なく消化できてしまう。どうしてこんなマジックが可能なのだろうか。

 殊この映画に関しては、マジックの種はなく、細部のていねいな積み重ねが、そういう効果を生んでいるのだろう。つまらないけれど、そのように考えるしかないように思う。俳優の秀逸な演技や、テンポのいい脚本、使いどころを心得すぎている音楽、余計なストレスを全く感じさせないカメラワークなど、詳細をあげだすと枚挙にいとまがない。

 ひとつの幸せの形が、このようなに純粋な形で描かれている映画は、思いのほか少ないのではないか。このような友人や恋人を持つことは、人生の最も幸せなことのひとつだろう。中島みゆきも「縦の糸はあなた 横の糸は私 逢うべき糸に 出逢えることを人は 仕合わせと呼びます」(糸)と歌っている。僥倖としか言いようがない出会いが、多くの人に訪れますように(嗚呼、なんだか幸せな雰囲気に染まってしまっている)。

(監督:オリヴィエ・ナカシュ、 エリック・トレダノ 2011年 フランス)