僕は映画狂、というより、映画を語りたい今日

もしかすると、映画そのものよりも映画館の暗闇のほうが好きかもしれない。

自分で「ハッピーエンドかバッドエンドか」を選べる映画は、素晴らしい映画になり得るか。

  自分で「ハッピーエンドかバッドエンドか」を選べる映画があるとしよう。それは自分にとって素晴らしい映画になり得るか?

 選択肢が多ければハッピーなのかというと、実はそうでもない。人間は不思議なものだと思う。選択肢があることで選ぶ苦悩が生まれる。ある選択肢を選ぶということは、他の選択肢を捨てるということなのだ。どうして捨てたのか。今僕はハンバーグ定食を食べているが、どうしてカキフライ定食ではなかったのか(あっちのほうが美味しそうじゃないか)。

 物語に関しては、選択肢がない方が良いように思える。つまり、「ハッピーエンドかバッドエンドか」を選ぶことができる映画よりも、そうでない映画の方が優れているような気がする。どういう意味で? 考え出すと、この問いに答えるのは結構むずかしいことが分かってくる。一言で答えるとすれば、「物語を楽しむというのは、つまりそういうものなんだ」ということになるのではないか。

 どうしてあの物語は、あのように展開しなければならなかったのか。あの人はどうしてあの場面でハンバーグ定食を食べざるを得なかったのか。製作者はどうしてAを殺さねばならなかったのか。・・・などなど、物語は誰かしらの「~ねばならぬ」という理由によって進んでいく一本道である。

 むしろ、このように言い換えた方がいいのかもしれない。他の選択肢があったように見える映画よりも、なるほどこの一本道以外にはこの映画の成立は不可能だったのだ、と思える映画の方がより優れている。観る側はこの「~ねばならぬ」を読み取ることで、癒されることがある。それは、映画の一本道と、観ているこちら側に存在する一本道とが、どこか共鳴するからに違いない。