僕は映画狂、というより、映画を語りたい今日

もしかすると、映画そのものよりも映画館の暗闇のほうが好きかもしれない。

『タイタニック』は恋愛映画ではない。

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「大船に乗ったつもりでいて下さい!」
「わかった」
「まあ、タイタニックかもしれませんが」
「おいっ」

みたいなベタな会話を続けて2回もしてしまったので、映画ブログをしている身としては、「タイタニック」について考えざるを得ない。

 僕にとって、面白味のわからない映画である。はじめて観た中学生のときには、映画なんて大それた外出をすることへの興奮に加えて(なんて可愛いんだ)、ケイト・ウィンスレットが一糸纏わぬ姿を見せつけるシーン(なんて綺麗なんだ)に顔面の血流が決壊の危機を迎え、それ以外のことは全く覚えていない。

 それから何度か観たけれど、やはり大した映画に思えない。そもそも恋愛映画の楽しみ方がよくわかっていないのもあるかもしれない。なんなのだろうか、恋愛映画って。それは恋愛じゃなくて、発情なのではないか、と言いたくなるような映画もある。別に発情の価値を貶めたいわけではない。発情には発情の価値がある! ただ、永遠の愛とか、人生を賭けた恋、とかいう大それた言葉を使うのはやめて、永遠の発情とか、人生を賭けた発情、という言葉にかえた方が、より事態を正しく描写できるのではないか、と思うだけだ。

 タイタニックに話を戻す。僕は勘違いをしていたのかもしれない。そう思い始めた。タイタニックは恋愛映画でも発情映画でもない。あれは「沈没感」映画なのではないか。

 この映画で「沈没」するものは三つある。タイタニックという巨大船、レオナルド・ディカプリオ、そして「碧洋のハート」と呼ばれるダイアモンドである。それぞれがタイタニックで描かれた恋を象徴している。そしてその全てが今や深い海の底へと、つまり記憶の底へと沈んでいく。物語のよって、沈没のイメージが豊饒になっていく。沈没とは、下降と断絶、暗さや冷たさ、ある種の純度、沈黙と静止、過去、そして死。

 スターウォーズが宇宙の広大さを、単なる知識の羅列ではなく感触として教えてくれる映画であったのと同様に、タイタニックもまた、「沈没」という単なる物理現象を感触として教えてくれる映画なのではないか。その手段として用いられたのが、恋愛というテーマだった、というわけだ。沈没と言えばタイタニックだし、タイタニックと言えば沈没なのである。冒頭の会話もそれの傍証である。

 「知識ではなく、感触として伝える」というのが、映画を含めた表現の重大な役割だとすれば、なるほどタイタニックはやはり偉大な映画なのかもしれない。