僕は映画狂、というより、映画を語りたい今日

もしかすると、映画そのものよりも映画館の暗闇のほうが好きかもしれない。

【ミニオンズ公開中】 笑うハナタレ小僧「我々こそが路頭に迷ったミニオンズなのだ!」【感想】

 アホすぎて、馬鹿に深遠なワンダーランド! 僕は人生をひとつに賭けるとしたら、こんなアホ馬鹿ワンダーランドの建立にこそ、人生を賭けたい。凶悪な悪者に仕えなければ、生きる目的を見いだせないミニオンズは、この上なく可愛くキュートだが、常に自らの手で悪者を滅ぼしてしまう悪魔でもある。体制に対して反体制が、カルチャーに対してカウンターカルチャーがまだ何とか生きていた1968年が舞台。今や、僕たちの世界には、生きる目的を与えてくれる悪者さえ存在しない。さあ鼻でも垂れながら合唱しよう! 「我々こそが、路頭に迷ったミニオンズである!」

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ミニオンズはバナナを超え、僕はバナナに愛情を注ぐ。

 ああ、可愛い。なんという可愛さだ。観る前は不気味なバナナにしか見えなかったのに、登場してチョコマカと動き回るミニオンズをみて、完全に心を持っていかれた。この現象は、『モンスターズインク』シリーズでも起きたことだが、程度は全く違う。ミニオンズに比べたら、マイク・ワゾウスキはまだ怪物の領域に留まっている(ごめん、マイク)。ミニオンズは、ただのバナナから始まり、動くコミカル・バナナを通り越して、ついにはバナナを超越した。バナナがミニオンズを規定しているのではない。ミニオンズがバナナを規定しているのだ。今や僕は、スーパーで出会うバナナにさえ、ミニオンズの面影を感じ、愛してしまうだろう。

 それにしても、ミニオンズがほとんど言葉を喋らないのがすごい。なんとなくわかるのは、片言レベルの単語のみ。たとえば「な゛かま゛ぁぁ」とか。それである程度バリエーションに富んだ感情を表現できるのだから、製作技術の高さがよくわかる。ピクサー映画の『ウォーリー』で登場したロボット・ウォーリーも、言葉は喋らなかったが、動きで雄弁に語っていた。制約が創造性につながる、いい例なのかもしれない。

 ミニオンズは、人類が誕生する遥か以前から生息し、その時代の最も凶悪なボスに仕えることを喜びとしてきた。彼らは、ボス不在の中、彼ら自身の文明を発展させたこともあったが、ボスがいなければ、生きる目的さえ見いだせない。ボスあってこそのミニオンズなのだ。しかし、ミニオンズの悲しい運命は次のことにある。なぜか彼らは、自らのボスを、生き甲斐を与えてくれるボスを、いつも自分たちの手で滅ぼす運命にあるのだ。したがって、彼らは悲しみと共に、新しいボスを探しにいかねばならない。

 ミニオンズの中の有志が、新しいボスを探しにニューヨークにやって来る。時代は1968年。つまり、そこには明確な対立があり、体制と反体制があり、主流のカルチャーに対して、カウンターカルチャーが存在した、あの時代。正義がまだ自分を正義だと疑っておらず、悪が明確に定義されていた、あの時代ミニオンズは、時代の最先端を走る悪者、スカーレットに仕えることに成功する。しかし、ミニオンズの呪われた運命は、またもや発動し、紆余曲折の末、またもボスを失うことに…。

 アホらしいミニオンズの世界には、ちょっとした懐かしさが漂う。それは、今よりもう少し全てがはっきりしていたはずの時代の香りであり、その香りを失った者だけが感じる郷愁の念である。もしもあの時代ではなく、今の時代なら、ミニオンズはボスを見つけられないだろう。なぜなら、悪者が誰か、よくわからなくなってしまったから。何もかも、もうバラバラなのだ。ここにはどんな建物も建っていないし、それを倒そうとする勢力もいない。ミニオンズが自らボスを滅ぼしてきたように、我々も、自らのボスを滅ぼしてきたのだ。仕えて生き甲斐を得られるものなら、仕えたい。しかし、仕えられない。この時代にあって、僕は、バナナに異常な愛情を注ぐことによってしか、意味を見いだせないのだ。それって、ものすごく悲しくないか。

(監督:ピエール・コフィン、 カイル・バルダ 2015年 アメリカ)


映画『ミニオンズ』予告編 - YouTube