僕は映画狂、というより、映画を語りたい今日

もしかすると、映画そのものよりも映画館の暗闇のほうが好きかもしれない。

生は悲しいことに有限だが、だからこそ創造的である(『海の上のピアニスト』の感想)

 船で生まれ、天才ピアニストへと成長し、そして船と共に死んでいった1900(ナインティーンハンドレッド)。船を降りる機会はいくらでもあったはずの彼は、どうして最期まで船を降りなかったのか。この問いの先には、有限性と創造性の意外なつながりが見えてくる。切ないけれど、人間の一生を美しく纏め上げて語った寓話である。スローガン風に言うと「生は悲しいことに有限だが、だからこそ創造的である」。原作の小説と合わせて、とっても良い映画です。

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◆なぜ1900は船を降りなかったのか。

 陸に降りようとした彼が見たものが何だったのか。タラップの上で立ち止まったときのことを1900は次のように述べている(引用は全て原作の小説から)。

ぼくを踏み留まらせたのは、ぼくの目に映ったものではなかった
それはぼくの目に映らなかったもの
わかるかい、友よ? 目に映らなかったもの……探してみたけれど、どうしても見つからなかった。あの果てしなく巨大な町並みの中に、ないものはなかった。ぼくの探しているもの以外はなんでもあった

だけど、境界線だけは、なかったんだ。

  1900の言う境界線とは、文字通り町の境界線でもあるが、象徴的な意味も含まれている。境界線のある/なしは、つまり有限/無限の対立である。1900は無限を拒否し、有限に留まろうとした。それが自分の生きる場所だと信じて。

 鍵盤上で奏でられる音楽も無限、鍵盤は八十八キーだけ。でも、それを弾く人間のほうは無限。こういうのが好きなんだ。これなら安心だ。
 (中略)
何憶何十億というキーがどこまでも続く巨大な鍵盤、これが僕の見たものさ。無限の鍵盤、
無限の鍵盤なら、さて、
そんな鍵盤の上で人間が弾ける音楽なんて、あるもんか。間違った椅子に座っちまったってことさ。そいつは神さまが弾くピアノだよ。
 (中略)
 陸地というのは、ぼくには大きすぎる船、長すぎるたび、美しすぎる女、強すぎる香水。ぼくには弾くことのできない音楽。許してくれ。ぼくは船を降りない。

  陸地で「神さまが弾くピアノ」を下手に弾き続けている自分にも、やはりこの有限/無限の選択は重大であるように感じる。というのも、1900が次のように訊ねるとき、僕はドキドキしながら、こう答えるしかない。「えー、あの、もうすでにバラバラになっています」

 「恐ろしいと思ったことはないか、君たちは?そのことを、その果てしのなさを想うだけで、ただ思うだけで自分がバラバラになっていくという不安に駆られたことはないのかい?」

  無限の世界でバラバラに散らばっていく自分。世界に溶け込んでいく自分たち。それはそれで悪くないと思うこともあるけれど、ふと我にかえって、ひとつの視点から自分の人生を捉えることに必死になったときに、バラバラに散った自分たちが行方が気になりだす。

 そんな状態は決して創造的ではあり得ない。創造性とはつまり、一つに纏まるはずのないものたちを、一つに纏め上げることである。やはり境界線が必要だったのかもしれない。散らす力は世界が与えてくれるが、纏める力は自分で獲得するしかない。

 おーい自分たち、今から纏めるから集まっておいで。そう言っても集まってくれるかどうかは分からない。なんせ、もう僕は船から降りてしまっているのだから。困ったものである。船に戻れない自分は、いったいどうしたら良いのだろうか。

(監督: ジュゼッペ・トルナトーレ 1998年 イタリア)

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