僕は映画狂、というより、映画を語りたい今日

もしかすると、映画そのものよりも映画館の暗闇のほうが好きかもしれない。

ベッキー騒動について。恥を知らぬ人々と自分について。

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 知らない間に(僕だけか)、ベッキーの不倫についてものすごい量の情報が行き来している。みんな、すごくヒマなのだ。そして僕も同じようにヒマなので、こんな文を書こうとしている。
 よく論じられている論点については、あまり興味がない。いくつかの記事を読んだけれど、僕の結論は変わらない。以下に結論を羅列しておく。

◇不倫
 不倫は個人の問題である(しかも今はまだ不倫「疑惑」の段階)。芸能界とはいえ、ある一定以上は踏み込んではならないプライベートな領域がある。たとえ過去に不倫で傷つけられた人でも、その領域にずかずか踏み込んで当事者を「不倫したこと」に措いて批判する権利はない。不倫に限らず、人間関係で一度でも傷ついたことがある人なら知っているだろう。人間関係は決して一般論では語れない。百の不倫があれば、百の事情がある。裁判官気取りはやめよう。

◇ビジネス面
 他方で、企業がCM打ち切りなど、ビジネスとして決断を下すのは理解できる。賛同はしないけれど仕方がない。ビジネスとはそういうものだ。

◇プライバシー侵害
 実際はそうなっていないが、今回の件で最も批判されるべきは文春のプライバシー侵害である。不倫よりもこちらのほうが恐ろしい。違法性を立証するのはやや難しいようだが、こういうことについて「大衆が望んでいない」ことを大衆自身が知らしめる必要がある。明日は我が身かもしれない。そのように想像してみよう。

◆ちょっと自分が恥ずかしかった。
 本題は、恥ずかしさについて、である。僕は、今回の騒動についての記事を読んで、少し自分が恥ずかしかったし、ベッキーに対して「ファンだったのに」とか「裏切られた」とか言っている人々を見て、やはり少し恥ずかしかった。下記のように、僕はそれほど熱心なファンではなかったが、しかし彼女に好感を持っていた一人であり、今回の騒動で「あのベッキーが?」と反応してしまったうちの一人である。
 ここ10年程はテレビを全く見ないのだが、テレビを見ていた時期には、彼女の明るい性格に好感を持っていた。彼女はポジティブを絵にかいたような人で、いつでも前向きで、どんなフリにも空気を乱すことなく優れたリアクションを取ることができる、稀有な才能の持ち主だった、と記憶している。この騒動の記事で触れられていたベッキーのキャラについても似たようなことが書かれているので、昔とあまり変わっていないのだろう。
 明るさ、というのが、当時の僕には魅力だった。自分がそれほど明るくないことにも、明るく振舞おうとしてもそうできないことにもコンプレックスを持っていたし、場合によっては人に明るく振舞うことを要求して、傷つけたりしていた。
 しかし、数年経った今、少し大人になって、人間関係の複雑さと理不尽さを見聞きし、自分の弱さや臆病をある程度認められるようになった今、このように問いたい。いつも明るくて前向き? そんな人間、存在できますか、と。
 そんな人間、いませんよ。それを考えもしなかったあの頃の自分が少し恥ずかしいし、今まさに「ファンだったのに」とか「裏切られた」とか被害者面をして叫んでいる人たちを見ても、同種の恥ずかしさを覚える。どれだけ人間を知らないのだろうか、と。ショックを受けるのは分かるが、不倫くらいで「裏切られた」と青筋立てて叫ぶくらいなら、最初から2次元のフィクショナルな人物を愛した方がいいのではないか。
 今回の騒動で、ベッキーについて改めて知ったこと。それは要するに「ベッキーも僕のよく知っている人間だった」ということ。この一点のみである。ベッキー川谷絵音のLINEのやり取りが本物だとしたら、ベッキーはプライベートな場面でも明るく振舞っている。それを見て、なんだか悲しかった。明るくなくてもいいのにね。