そのカナシミ、必要ですか。(「インサイドヘッド」の感想)
製作する映画がすべて面白いピクサー。あまりの打率の高さに、ちょっとした恐怖すら感じる。一体どういうシステムで映画を作り出しているのだろう。なんだか催眠術にかけられているようである。
風変りな主人公である。言ってみれば、感情が主人公である。小学生の女の子ライリーの脳内で、感情の司令部を仕切っている5種類の感情、ヨロコビ、ビビリ、ムカムカ、イカリ、カナシミ。それぞれ擬人化されて、少女やオジサンと化した彼らが、ライリーの脳内で奮闘する物語。
◆進化心理学入門としてのインサイド・ヘッド
テーマは「どうして悲しみが必要なのか」。冒頭でこのテーマについて、説明がなされる。説明の主はヨロコビで、ビビリやムカムカ、イカリが必要なワケを話した後に、「でもカナシミがいる理由は分からない。いい子だけど」なんて言う。カナシミ自身も、自分がライリーにとって必要な理由を分かっていない。
結論から言うと、悲しみが必要な理由は、それが人と人を結びつける力だから、というものだ。この発見自体は、進化心理学のはじめのほうで習う事実で、大人なら別に習っていなくてもなんとなく知っている。ビビリやムカムカ、イカリはどちらかと言うと、個体の生存に必要だったのに対して、カナシミは集団の維持に必要だった。
描かれている事実自体は何の変哲もないことなのだが、ピクサーの魔法にかかれば、この平凡な事実が、涙なしには観られない物語に変わるから不思議だ。トラウマや抽象思考、夢の創られ方や脳の忘却システムなども、描き方が抜群にうまい(夢の創られ方=脳の中の映画スタジオが創るのだ!)。それほど詳しくはないけれど、結構学術的にも正確なのだと思う。「進化心理学入門」としての「インサイド・ヘッド」。棒読みの教授のやる気のない授業よりも、この映画の方がよほど面白いのではないか。
◆個体と集団の和解。成長とはそういうことなのかも。
原題は「Inside Out」で「表裏」、ちょっと意味を拡大して「表裏一体」ということを示すらしい。原題と邦題については、下の記事が「誤訳ではないか」と指摘し、この映画における「表裏」を3種類指摘している。
①「ライリーとライリーの脳内」という表裏
②「悲しみがあるから喜びがある」という表裏
③「理性と感情」という表裏
③が要約だけでは分かりにくいので、説明を追加する。記事を書いた新井さんは、
ところがカナシミは時にヨロコビの言いつけに反するように、触ってはいけないというボールや装置に触れてしまう。そして、その理由をカナシミ自身が説明できない。
・・・ということを証拠として、次のような推論をしている。その理由はこの映画の主体が、5つの感情ではなく、ライリー側にあるからだ、と。カナシミをコントロールしているのは、ライリーの無意識である。
以前にも書いたけれど、僕はこういう深読みがすごく好きである。この記事は面白かった。ただ、僕は③については、どうしても無理やり感が抜けないと思う。
むしろ、カナシミだけが突飛な行動をするのは、上述のようにカナシミだけが「個体の生存」を目的にしていないことを示しているのだと思う。カナシミだけが他者に開かれている。それに対して、ヨロコビなど他の感情キャラが「個体の生存」というフレームでしか意味を測れない。だからこそ、ヨロコビにとってカナシミは理解不能なのである。
そう考えると、ラストでヨロコビがカナシミの意義を理解したのは、ライリーの成長を描いたのだということができる。カナシミが「個体の生存」でなく「集団の維持」に寄与する感情であることを踏まえると、ライリーはこのときはじめて、家族や友達という集団の利益へと、つまり他者の利益へと、目を向けたのである。そしてそれが、結果的にはライリーの問題を解決することになった。
自分か集団か。この葛藤は、「自分か友人か」「自分か家族か」「自分か会社か」など様々なバリエーションを以て、人を悩ませる。成長するということはこの葛藤について思い悩むことであり、大人になるということは、この葛藤について暫定的な結論を有するということである。ピクサーは、感情を擬人化するというトリッキーな技を使って、王道の成長ドラマを描いたのではないか。
(監督: ピート・ドクター、 ロニー・デル・カーメン 2015年 アメリカ)
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