僕は映画狂、というより、映画を語りたい今日

もしかすると、映画そのものよりも映画館の暗闇のほうが好きかもしれない。

なぜ面白いか、その答えは・・・【スターウォーズ祭り開催中】

  本書はまさに、当ブログに打ってつけの本である。スターウォーズはなぜ面白いのか」という当ブログが探求している問いを、本書もまた同様に問うている。しかも、筆者はこの問いを30年間も考え続けてきたらしい(僕は3週間である)。

スター・ウォーズ論(NHK出版新書 473)

スター・ウォーズ論(NHK出版新書 473)

 

 ちなみに、昨日の記事で以下のように書いたが、筆者の答えは「B:普遍性」のバリエーションの一つと位置付けることができる。

 自分自身の考えも含めて、この問いに対する答えのバリエーションは、実はほとんどない。整理すると、下の3種のどれか、もしくは3種のうちの幾つかを複合したものになっている。

 A:社会もしくは時代、B:普遍性、C:映画一般の美点

 

◆筆者の答えは「共生」!

 スターウォーズの魅力を語る際のご多分に漏れず、筆者もキャンベルの神話論には触れている。キャンベルの神話論を利用したおかげで、スターウォーズがある種の普遍性を獲得したことも認めている。しかし、筆者はここで終わらない。これだけではないだろう、神話的な構造を持っている映画なら山ほどある。スターウォーズがこれほどの成功をおさめた理由はまだ他にあるはずだ、と論を進めていくのである。この姿勢には非常に共感した。

 しかし黒澤の作品には、そうした中にある一つの共通のテーマがあった。彼自身の言葉ではそれは「なぜ人々はみんなで一緒に幸せになることができないのか」というものだ。

「彼は現代的な表現と歴史超大作の形で、そう問いかけてきたんだ。彼はいつもその問いに強烈な形で答えてきたんだよ」

とルーカスは言う。

  筆者はこの発言を引き、ルーカスがテーマとしての「共生」を重視していたことを示している。例えば、神話的には「父殺し」にあたる場面で(エピソード6)、ルークは父親のアナキンを殺さなかった。「父殺し」であれば、実際にアナキンを殺す展開にもできたはずだ。ちなみに上記の神話学者キャンベルは、「スターウォーズが好きだ」と明言しながらも、この場面については「アナキンを殺すべきだった」と考えていた。しかし、そうはならなかった。なぜか。

 劇中で、ルークはアナキンに助けを求め、アナキンはそれに応える。ルークはアナキンを赦す。アナキンはその後すぐに死んでしまうが、ルークによる肯定の眼差しによって看取られる。物語全体としては、決定的なカタルシスを犠牲にしてまで、赦しとそこからの肯定を描いたということができるだろう。筆者は、このような肯定の眼差しがスターウォーズ全編を貫いている、と考える。それが筆者の言う「共生」の表現である。

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 筆者はニーチェの超人思想までをも引いてこの肯定の意味を強調しているが、僕はそこまでの強度の全肯定がスターウォーズという映画に組み込まれているかどうかまでは、今のところよく分からない(筆者がスターウォーズを愛しすぎた結果だという気もする)。金子みすずの「みんなちがって、みんないい」とかいうレベルの肯定ではないのだ。少なくとも「あいつ間違っているけど、それもいい」とか、「あいつ憎らしいけれど、それもいい」というほどのレベルぐらいにはいかなければならない。ただ、小説家の保坂和志がかつて「全ての小説は、人間への圧倒的な肯定である」と書いたのと同じように、優れた映画というのは多かれ少なかれ、人生や世界に対して「Yes!」と叫んでいるものだと思う。筆者の認識に則るのであれば、僕が問題にしたいのは、むしろスターウォーズが何を肯定したのか、という点である。この映画は何を肯定し、そしてその結果、僕たちに何が可能になったのか。後日、詳しく書きたい。