僕は映画狂、というより、映画を語りたい今日

もしかすると、映画そのものよりも映画館の暗闇のほうが好きかもしれない。

【悪の法則】現実が理不尽だとしても、映画はポップコーンを食べるために存在する【感想】

 「酷評なし」を謳い文句にしている当ブログでは、酷評をしたことがないし、今後もする予定もない。しかしこの映画は酷評しようと思う。もう少し正確に書くならば、この映画にとっては、中途半端な賛辞よりも、忌み嫌うことの方がむしろ賞賛することになるのではないか。少なくとも僕にとっては、酷評することそのものが、この映画に割いた2時間の価値を保証することになる。学んだことは次のことだ。「映画とは、ポップコーンを心地よく食べるために存在する!」

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 この映画が存在するメリットが分からない。今日はそういうことを書こうと思う。

 描かれているのは、一言で言うと、理不尽な現実である。理不尽は理不尽でも飛びっきりの理不尽で、「不機嫌な上司に八つ当たりされた」というレベルではなく、ふと見れば首なし死体が転がっているレベルの理不尽である(劇中で本当に転がっている)。主人公の弁護士には、何の救いも訪れない。彼は虎=マフィアの尾を意図せず踏んでしまい、命の危険があるほどの窮地に追い込まれ、命以外の全てを失う。

 時おり挿入されるやけに哲学的な会話は、主人公の窮地を整合的に捉えるための視座を提供しているようにも見えるが、実際のところ、主人公に襲い掛かる悲劇の度合いを考えると、「それくらいで納得できるんなら困ってないよ」と言いたくなる。全くの役立たずの代物である。役に立たなさすぎて、訳知り顔の脇役がこのような会話を続ければ続けるほど、主人公の弁護士が如何に理不尽な目に合っているのかが、強調される効果が生じている。おそらくは、それがリドリー・スコット監督の意図するところであろう。

 例えば、マフィアにつながるある大物が、「君はもっと前に選択していた」と主人公に伝える場面がある。言っていることはとても単純なことで、「君はいまそうやって被害者みたいな顔をして、私に助けを求めてきているけれど、現在のこの状況は、ずっと前に君自身が選択したものなのだよ。君自身が自覚しているかどうかはともかくとしてね。君はもうすでに選んでいた。今選ぶのではないのだ。君の選択には、君が責任を持たなくてはならない。そのことを理解した方がいいよ」ということなのだ。仕事の場面でも使えるような、シンプルな格言である。

 この格言自体は、ある程度は正しいとは思うのだけれど、それを以てしても、最愛の妻がマフィアに惨殺され、その首なし遺体がゴミのように捨てられるほどの仕打ちが、どのように納得でき得るというのか。確かに弁護士は、お金欲しさに悪事に手を染めつつあった。しかし、そうだとしても、因果のバランスが全く取れていない。あまりにも理不尽すぎるのではないか。

 ことほどさように、この映画から圧倒的な強度で伝わってくるメッセージは、「現実とは理不尽なものである」という、その一点のみである。要するに、「分からぬのであれば、教えてやろう。現実は理不尽である」と言いながら、美しい女性の首なし死体を見せられている。しかし、大方の人はここで反論したくならないだろうか。現実が理不尽? そんなことは知っている! そんなことは生まれたときから承知の上だ。それを改めて映画として見せることに、どんな意味がある?

 ニュースを見ればわかる。どうしてその人が死ななければならなかったのか、如何なる理由も見いだせない人が、毎日死んでいく。生死の話だけではない。ふとした日常の場面にも、理不尽の巨大な影は姿を現す。全く理解不能な他者、原理的に一方的にしか成立しない愛。しかし、僕たちは、恐怖という媒体を通して、姿を見えない現実の、本当の姿をずっと心で感じてきたのではないか。だからこそ、光が見える。宇宙の広大な闇の中で、太陽に照らされて地球がわずかに輝いている。それと同様に、理不尽が支配する世界の中で、論理や約束を何とか組み立てていくことで、僅かに人間が輝いている。そういうものではないか。

 表現とはひとつの肯定である。たとえ否定的に表現されていたとしても、それが表現された時点で、メタ的に肯定している。そういう意味で、全く肯定していないものを、人間は意味として表現することができない。だとすれば、リドリー・スコット監督が目指したものは、これほどの理不尽に追い込まれた生を肯定すること、延いては生を肯定すること。そう考えてもいいのかもしれない。それは、永遠に回帰する生を、意志がもう一度選択=肯定しなおすことによって、神を失った世界における生の意味を回復しようとしたニーチェにも通じる、英雄的な行為かもしれない。しかし、僕は言いたい。クソクラエと。例えリドリー・スコット監督の意図がそうだとしても、大したことではない。基本的に、映画とは、ポップコーンを心地よく食べるために存在する。改めて、そのことを教えてくれた稀有な作品である。

 (監督:リドリー・スコット 2013年 アメリカ)