僕は映画狂、というより、映画を語りたい今日

もしかすると、映画そのものよりも映画館の暗闇のほうが好きかもしれない。

【鏡】 ひたすら眠い傑作は存在するか? タルコフスキーだけがそれを成し遂げる。【感想】

  意味不明すぎて、鼻血でも出しながらでないと、退屈すぎて寝てしまうかもしれない。タルコフスキーの自伝的映画だと事後的に知ってみたところで、事情は変わらない。何度も再生を止めて、巻き戻してそれぞれのシーンを見直した。どの時間軸なのか、現実か、夢か。そこにどんなメタファーが隠されているのか? このシーンの全体に対する役割は? しかし途中から、そういう鑑賞態度は、全く本作向きでないと諦めた。詩は要素還元できるものではなく、何か全体性がぱっと立ちあがってくる中で眺めるものだ。鼻血は出ていなかったので、腹筋とパリンコを繰り返しながら、ただ流した。

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◆いくらなんでも眠すぎるけれど、映画のひとつの到達点かもしれない。

 同じくタルコフスキー監督の『惑星ソラリス』は、前半は眠すぎたが、後半はそうでもなく、むしろ目の覚めるような展開と神秘性で楽しませてくれた。しかし、本作『鏡』は、前半は眠く、後半も眠い。睡眠導入の効果では、『惑星ソラリス』のさらに上を行く。難解というわけではない。むしろ個々のシーンは、人間がわりに常識的な挙動を見せているだけである。何が難しいかと言うと、なぜこんな映画が存在しなければならなかったのか。その必然性の方である。だから、映画の中身よりも、タルコフスキーの意図のほうが気になってくる。

 本作は自伝的作品らしい。とはいえ、そこはさすがのタルコフスキーというべきか、時系列順に自分に起こったことを列挙するなんて真似はしない。映画は、時系列もバラバラに、夢か現実もはっきりと判別できないような形で、淡々と進んでいく。監督の父が作った詩が朗読され、水と火が美しく映し出される。言葉が、日常的に使っているような言葉ではなく、時間が、日常的に知っているような時間ではないような気がしてくる。確かに、ある人間が真剣に自分を表現するとき、こういうことが起こるかもしれない、と思う。

 父と自分(=タルコフスキー)が、母と妻がオーバーラップして撮られていく。このオーバーラップが、大海原にたった一つ打ち立てた支柱であり、この支柱に記憶が呼び起こされ、記憶が絡みついて、互いに複雑で立体的な関係を築き上げていく。全てが語られたあとに何かが残っている。空中に浮かんだひとつのイメージ、違和感の塊のようなイメージ、これがタルコフスキーという人間が醸し出す存在感なのかもしれない。

 登場人物たちの会話は成立しているようで、成立していない。人々は質問に答えず、とつぜん気が変わり、涙を流して、怒り出す。かと思えば、急に自分語りをして、反省したり悟りを得たりする。劇中でも何度か言及されていたが、ドストエフスキーの小説における会話に似ている。つまり、個々の登場人物の言葉が、物語の犠牲になっておらず、物語を超えて何かが過剰で、卑猥である。ドストエフスキー小説と同様に、ポリフォニー的と言ってもいいと思う。

 本作が自伝であることを考えると、このことの含意は非常に面白い。タルコフスキーという人物を表現するのに、必然的に入り込んだ他者たちの声。これらを無理やり統一するのでもなく統一し、一つの異物としてドンッと観客の前に投げ出したタルコフスキーは、確かに傑物には違いない。果たして、理解されるとでも思っていたのだろうか。おそらく今後なんど観ても睡眠薬のような映画であることは何も変わりないだろうが、人間を語ることにおいて、何かしらの到達点に位置する映画であることは間違いない。

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惑星ソラリス』も(少しだけ)お勧めです。眠いけど。

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