僕は映画狂、というより、映画を語りたい今日

もしかすると、映画そのものよりも映画館の暗闇のほうが好きかもしれない。

映画『ゼロ・グラビティ』 怖すぎる宇宙と生への賛歌 

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 ◆宇宙に投げ出されたときの心得

1.近くのジョージ・クルーニーに従え

  彼はとても素敵なのだ。

2.消火器を確保せよ

  火も消せるし、なんと宇宙を飛ぶこともできる。

3.最優先は握力

  宇宙ステーションに戻れるかどうかは、握力にかかっている。

 

◆宇宙、怖い。

 宇宙は怖すぎる。特に怖いのは、慣性の法則だ。物理を習い始めたときに、慣性の法則が、恐怖の対象になるだなんて考えたことがなかった。繰り返し警告しよう。慣性の法則は恐ろしすぎる。一度その方向に動きはじめたら、何かしら逆方向の力を加えないことには、全く止められない。間違って宇宙に投げ出された宇宙飛行士は、はっきり意識を保ちながら、漆黒の闇の中を永遠に漂流していくのだ。

 そういうわけで、途中まで、ジョージ・クルーニー扮するコワルスキーが飛ばされて行った先のことが気になって仕方がなかった。闇に流れながら、不自由な宇宙服の中で、酸素がなくなっていくのをただ待つ時間は、どれほどの恐怖だっただろうか。彼はいつでも冷静で、明るく理想的なリーダーとして描かれているが、そんな彼をして、発狂せしめるほどの恐怖を宇宙空間は与えてくる。

 そんな潜在的な可能性を否定してくれるのは、サンドラ・ブロック演じるストーン博士が見る幻覚。宇宙へと投げ出されたコワルスキーが奇跡的に帰ってきて、死を積極的に受け入れようとしたストーン博士を励ます。「宇宙=無重力=死」、「大地=重力=生」という対比がセリフの中で明示されるのは確かこの個所のみだが、この対比は本作全体を貫いている。ラストで、地球に帰還を果たしたストーン博士が、重力に抗いながら力強く立ち上がるシーンは、この対比の上に成立する、劇的な絵だろう。彼女は、生きることを選択し、そして生きたのだった。映画「ショーシャンクの空に」で刑務所から脱獄を果たした主人公が、空に向かって雄叫びを上げるシーンを髣髴とさせる。

 

◆宇宙=死に惹かれていたストーン博士

 ところで、主人公のストーン博士は、宇宙に来る数年前に、子どもを失っている。この設定は、一見、ストーリーに積極的に関わらないように思える。製作者がこの設定を必要とした理由は何だったのだろうか。単純に、猛烈なスピードで襲い掛かってくるスペースデブリから逃れる話でも、手に汗握る展開となったはずである。観客の涙を誘おうという意図だとすれば、扱いがあまりにも中途半端すぎる。

 ストーン博士の独り言は、おそらく手がかりの一つなのだろう。幻覚の中で会ったコワルスキーに励まされ、サバイバルの意志を新たにしたストーン博士は、コワルスキーにある伝言を頼む。それは、かつて死地の国へと旅立った子どもへの伝言である。子どもへの謝罪と、自分は生きるという宣言。コワルスキーが投げ出された宇宙空間の先に、子どもが旅立った死地の国がある。彼女にとって、宇宙と子どものいる場所は同一視されている。

 そうなると、映画冒頭で、ストーン博士が呟くこのセリフの意味が際立ってくる。

「宇宙が好き。静かで、落ち着くわ」

 宇宙への愛着は、つまり、子どもへの愛慕の念である。彼女は一時的にせよ自殺しようとするが、それはサバイバルの手段を全て失ったから、というだけではなく、かつて子どもを失ってからずっと、宇宙=死に惹かれ続けていたからだろう。彼女は失った子供に会いたかった。幻覚の中でコワルスキーは言う。

「ここ(=宇宙)は居心地がいい。何も君を傷つけない。そんなところに、生きる意味がどこにある?」。

 ストーン博士は、この瞬間に、死の誘惑と決別する。正確に言うと、死と、死んでしまった子どもと、そしてコワルスキーと…。そして、死の場所である宇宙から、生の場所である地球への帰還を誓うのだ。「二つの可能性がある。無事に地球に着くか、十分後に焼き死ぬか。どちらにしても、この旅は最高だわ!」。ゼロ・グラビティが、ただのサバイバル映画と一線を画しているのは、音のない宇宙空間に響く、生への賛歌にある。