僕は映画狂、というより、映画を語りたい今日

もしかすると、映画そのものよりも映画館の暗闇のほうが好きかもしれない。

天才のことは知らないけれど、天才は意外に不便かもしれない(『海の上のピアニスト』の感想②)

 感想①はこちら。uselesslessons.hatenablog.com

  「海の上のピアニスト」について、このHPの感想が面白かった。本当、他の人の感想は面白い。

 J/ 彼は、88個の鍵盤の上で、物語を奏でることによって、完結してしまっているんだね。ただ一度無垢な少女を見て、感動的なピアノ曲を弾いてしまった後に、船を下りてみたくなってしまう。何か完結しない思いが込み上げてきたんだね。「自分のいない所で自分の音楽が聞かれることに耐えられない」ってレコード会社の人から奪ったレコードを少女に渡そうとする。自分の思いが一人歩きすることなく、この少女には伝えられると。

B/ その少女が偶然、「陸から海を眺めて、海の声を聞き、人生の決断した」っていう男の娘だったから、その話しが心に引っかかっていた彼は、「一度陸から海を眺めて海の声を聞いてみたい」と。すなわち人はどうやって自分の人生を決めていくのかっていう問いに対する答えを自分で見つけてみたいと決心するわけ。

  主人公の1900と少女のくだりは昨日のエントリーでは書けなかった。上の引用の通り、1900は少女に出会い、はじめて傍観者としての創造を脱して、好意を抱く他者へ自分の創造力を捧げようとする。具体的に描かれることはないけれど、そうやって他者へとつながった瞬間に、船の上でのみ生きている自分の生き方を相対化するような力が働き、いちど船を降りてみようという気になったのだろう。

 しかし、彼は降りることができない。なぜなら、陸は「神さまが弾くピアノ」だったからだ。彼はその無限の鍵盤の中から「何が正しいのか」を選び取ることができない、と感じている。少女との出会いによって開かれた可能性は、しかし1900の前にはあまりにも広すぎる可能性だったのである。

 彼が降りられなかったのは、臆病だからではなく、彼は可能性の世界を見ることができたからだ、ということなのだろう。天才だけが陸を「神さまが弾くピアノ」だと認識することができ、そうした世界の中で「人間が弾くピアノ」を発見し、今弾くべき鍵盤を知ることができる。換言すれば、天才とは無限に広がる世界の中に有限性を発見し、その有限性の中で正しいものが何なのかを直知できる人間なのではないか。この場合の「正しい」というのは倫理的な意味ではない。科学的な正しさや、審美的な正しさのことである。

 そうなると、意外にも天才は不便だということになるのかもしれない。彼らは天才が故に、いつでも選択しなければならない。凡人にはその選択は見えないし、そもそも選択しなくても、のほほんと生きられるのだ。天才は自由ではない。彼らに与えられた道は、正しい道を選択すること、ただそれだけである。