僕は映画狂、というより、映画を語りたい今日

もしかすると、映画そのものよりも映画館の暗闇のほうが好きかもしれない。

3Dであることなんか、映画にとっては大したことじゃない、という話。

  『アバター』では、どんな映画よりも涙を流した。目がものすごく痛い映画だった。3D映画を一気に標準化させたこの映画では、作り手の方も気合いが入りすぎて、3D効果の調整を誤ったのではないか。映画館の隣に眼科がいるのではないかと思ったのははじめてのことだった。内容は兎も角として、目が弱い人にとっては辛い映画だった。

 そういう恨み節もあってか、3D映画にはもろ手を上げて賛同できない。3Dは確かに面白い。先日USJに行ったときも感銘を受けた。ハリーポッタースパイダーマンのアトラクションでは、単なる奥行き感覚ではなく、上昇や下降、目の前の対象物に対する反射的な運動など、3Dを極めるとこんなことができるのだ、と思った。

 3Dの極点は、マトリックスの世界である。脳に電極を埋め込んで、疑似体験をさせる。3Dが究極的な疑似体験へとひた進んでいるのは確かだと思う。最近出てきた4D映画は、奥行き感覚に加えて、嗅覚や触覚に訴える仕掛けがあるらしい。草原に出たら、草っぽいあの匂いがしたり、雨が降っているシーンなら、蒸気が吹き付けられたりするのだろう。

 3Dは、映画の醍醐味である疑似体験を強化する。それはそれで素晴らしいのだけれど、そうした強化によって失われていくかもしれないものも気になる。映画の面白さは、疑似体験だけではない。というか、疑似体験はあくまでも二次的なものではないか、と思う。

 映像だけでなく絵画も写真も小説もそうなのだが、現実を忠実に再現することが芸術の役割ではないと思う。むしろ逆に、現実世界の4D(空間の3次元+時間)の次元を下げる過程にこそ、芸術の根本的な価値があるのではないか。例えばピカソは2次元であるはずの絵画に3次元ないし4次元(3次元+運動)を閉じ込めてキュビズムを開始した。小説は時間芸術、と呼ばれる。並列的な世界を、一直線の記述(人は文章を前から後ろへと読むしかない)へと変換して提示することによって、現実に対するもうひとつの視点を確立することができる。

 だから映画も現実を疑似体験させることばかりに躍起になっても仕方がないような気がする(そういう映画もあってもいいけれど)。結局のところ大きな感銘を受けるのは、現実からどういう経路を通ってその映画がその映画になったのか、に関することであって、3Dはその目的に奉仕するからこそ意味がある。ひとことで言ってしまえば、映画がアトラクション化するのは避けて欲しい。即効性がある面白さももちろん大切だけれど、じわじわと身体に沁み込んでくるのが映画の本道であると思う。