僕は映画狂、というより、映画を語りたい今日

もしかすると、映画そのものよりも映画館の暗闇のほうが好きかもしれない。

コンコンコン、無能の扉をノックして。

「一生懸命やって、この程度なんだよ!」

 正確な文言ではないかもしれないが、『桐島、部活やめるってよ』という映画に出てくる小泉という男子高校生のセリフである。彼は、万能プレイヤーだった桐島のあとを継いで、バレーボールチームのリベロを務める。しかし、桐島との能力の違いが著しく、それをチームメイトから責められたときに、どうしようもなくなってこの言葉を叫んだ。小泉は映画の中では脇役なのだけれど、強く印象に残って、このセリフは何回も脳内でリフレインされている。己の無能はそれだけでも耐え難いが、小泉のように明確な比較対象があると、耐え切れなさはもう一段回上がって、彼の実存における大問題となるのだろう。自分って、何なんだろう。ここにいる意味、あるのかな。

 正直に言って、「一生懸命やって、この程度」だということは、ほとんどの人にとって全く珍しくないことだと思う。もちろん、僕もそうだ。ああ、自分って無能だなあ、と噛みしめる。それでも憂さ晴らしをしたり、できるだけ己の無能を見ないように努めたりして、何とかその場をやり過ごしている。しかし、もしもそれでは抑えきれなくなった場合、つまり、己の無能が、実存レベルにまで膨れ上がってきたとき、いったいどのように対処すればいいのか。映画ははじめから有能だったり、無能だったけれど何かのきっかけで有能になったりする人物が多いので(というか、そういう映画ばかり観ているせいでもあるが)、対処の方法はあまり教えてくれない。

 無能だったら、有能になろうとすればいいじゃないか、というのが最も単純な対処の仕方だろう。実際、そういう対処が正しいことを前提として、本屋には自己啓発本がずらりと並んでいたりする。「○○力」「凡人にも○○ができる30の方法」とか何とか。それほど詳しいわけではないけれど、読んでいくと役に立ちそうな内容もけっこうある。「なるほど、残業しないためにはこうしたらいいんだな」。まあ、実際にできるかどうかはともかくとして、方法が前に提示されると、できないと思っていたことができるかもしれない、と思えてくるので、ちょっとした解放感はある。というより、自己啓発本は、そのような解放感をもたらすことが、最大の役割なのかもしれない。

 しかし、己の無能に徹底的に打ちのめされている人間にとって、「君にはできるよ、どうしてやらないの?」という励ましほど残酷なものはない。できないことはできない。なんでそうなっているのかはわからないけれど、できないことはできない。仕方がないじゃないか。そう思うのではないか。だから、そんなふうに問いかけられたら、やはり小泉くんになって、叫ぶしかないのだ。一生懸命やって、この程度なんだ、と。

 小泉くんと全世界の潜在的な小泉くんたちを救うためには(あるいは、自分が救われるためには)、どうしたらいいのだろうか。実は、小泉くんには救いの手が差し伸べられていた。同級生の女子高生の実香である。彼女もまた、小泉くんと同じように、姉に比べて無能な自分を受け入れられていない。小泉と自分を重ねて、実香は「もうそんなこと気にしなくていいんだよ」という意味の言葉を投げかける。小泉くんはそれを今回は無視してしまったけれど、きっと救われるときが来るだろう。

 存在(=在ること)と能力(=為すこと)の区別でいうと、きっと能力の次元の問題は、能力の次元だけでは本質的に解決できない。どんな問題も、それを作り出したのと同じレベルの思考では解けないのだ(というようなことを、確かアインシュタインが言っていた)。無能の受容は、能力の次元ではなく、きっと存在の次元でこそ可能である。平たく言うと、こういうことだ。「貴方は無能だけど、そんな貴方でも好きですよ」。あるいは、徒競走で負けてしまい、ポロポロと涙を流してかえってきた少年を、笑顔で慰める母親、みたいな状況。外的な基準ではなく、他者の内的な基準に基づく承認こそが、無能への処方箋となる。小泉くんに差しのべられた手は、実香個人の手だった。それが大切なのだと思う。

 そう考えれば、無能というのは、存在の次元へ続く扉のようなものである。無能はつらいことだが、有能も別に大したことではないのだ。大切なことは、能力の次元にある扉を開いて、普段は入ることのできない存在の部屋に入ること。その部屋で、他者との交流があり、自分がそういう自分でいることを承認されること。できれば僕は、扉をノックする役割を、愛とか恋とか、あるいは宗教とかに任せ切るのではなく、皆が少しずつ、互いにノックするような社会が望ましいと思う。君も僕も無能だよなと、傷をなめ合うのではなく、皆が無能に立ち向かう勇気を得るために、扉は叩かれねばならぬ。扉はすくそこにある。コンコンコン。失礼、少しだけ入ります。