僕は映画狂、というより、映画を語りたい今日

もしかすると、映画そのものよりも映画館の暗闇のほうが好きかもしれない。

【職業としての小説家】ポストの上のオムレツ【極めて個人的な感想その2】

職業としての小説家 (Switch library)

職業としての小説家 (Switch library)

 

  これはあくまでも僕の個人的な意見ですが、もしあなたが何かを自由に表現したいと望んでいるなら、「自分が何を求めているか?」というよりはむしろ「何かを求めていない自分とはそもそもどんなものか?」ということを、そのような姿を、頭の中でヴィジュアライズしてみるといいかもしれません。「自分が何を求めているのか?」という問題を正面からまっすぐ追究していくと話は避けがたく重くなります。

『職業としての小説家』 村上春樹 2015年

   村上春樹は、このようなずらし方がとっても上手だと思う。いつも感心してしまう。「自分が何を求めているか?」(A)から「何かを求めていない自分とはそもそもどんなものか?」(B)へのずらし方は、だいたい次のようなイメージだろう。Aにおいて視線は、眼球から発射されて、外界にあるはずの「自分が求めている何か」を探し回っている。まだこの時、視線は外界だけを捉えており、自らの身体を視野に入れていないし、身体の内側と外側が混じってもいない。しかしBにずらした時には、視線は眼球から発射されて、鏡で反射して、身体全体を見つめている。しかもその身体は、「自分が求めているもの」と渾然一体となった身体であって、つまり外界と内界のあわいが揺らいでいる。そのような状態をヴィジュアライズしていみたらどうでしょうか、と村上春樹は提案しているのである。この過程を通して、世界と身体の関係が回復しているのである。

 このような視点の変更は、村上春樹の小説の随所で感じられる。小説が世界のメタファーだとすれば、村上春樹によって世界がメタファー化される瞬間に起こっていることは、上のような視点の変更、すなわち世界と身体の関係の回復ではないだろうか。村上春樹がやたらと走っていることはファンならずとも知っている話だが、彼がそのように身体を重視するのも、上のことを示唆するひとつの証拠であるような気がする。

 僕もたぶん「何かを自由に表現したいと望んでいる」人間の一人で、「自分が何を求めているのか」をけっこう頻繁に考える。ある程度システマティックにその問いを問えるような環境を、つい数週間前からではあるが、作りはじめてもいる(このブログもその一つ)。実際のところ、僕は何も求めていないのではないか、と思ってみたり、あるいは、「何かを求めている自分」をこそ、自分は求めているのだ、と思ってみたりする。しかしいつも根底にあるのは、虚しさ、ただそれだけだ。

 虚しさというのは、つまり「何にも根拠なんてないんだよ」ということで、これは僕のように何か明確な支柱があったほうがたいていのことがスムーズに運ぶ、というタイプの人間には、けっこうつらい状況である。これはおそらく時代のせいでもあって、無根拠であることは人類がまだ毛むくじゃらだった時期から変わらないのであるが、無根拠を上手に隠蔽して根拠があるように感じられる時代は、確かにあったのだ。しかし今は、恥ずかしがって人前に出ることのなかった無根拠が、羞恥心を忘れて、堂々と大通りで歩いている。

 無根拠への対処はいくつかあって、村上春樹のように、身体に問いただす、というのも一つの方向だろうと思う。身体は、無限の世界を有限化する装置みたいなもので、意思以前の偏向を持っている。僕がオムレツが好きなのは、自分の意思の選択によるものではない。身体が、そう伝えてくるだけのことだ。そのような身体の声を、今は空席になっている根拠の席に座らせる。そうすれば、無根拠と戦う拠点がひとつ完成する。

 他にもある。もしかしたらもっとあるのかもしれない。そのうちの一つは、無根拠を逆手にとって、「どの道なんの根拠もないのだから、とにかく撹乱するだけ撹乱してやれ」というヤケクソな態度である。オムレツから演繹してもケチャップは出てこないが、オムレツの隣にはいつもケチャップがあった。オムレツとケチャップは、互いに互いのいるべき場所を指し示していた。そのようにして互いが互いを規定することによって、ひとつの大きな根拠ができていたのである。

 しかし、無根拠は言っている。どうしてオムレツの隣にケチャップがあるの、そんなの根拠ないじゃない、と。その通りなのだ。ここで怯んでいては、この戦略は成立しない。「そんなの根拠ないじゃない」と呟いてにんまりする無根拠の前で、平然と「そうだよ、そんなの根拠ないよ」と嘯かなくてはならない。そうして、オムレツを蕩けかけたポストの上に置く。じゃあ、こうしてみようじゃないか、と不適な笑みを浮かべて。美味しいかどうかは問題じゃない。とにかく撹乱することが大切なのだ。