僕は映画狂、というより、映画を語りたい今日

もしかすると、映画そのものよりも映画館の暗闇のほうが好きかもしれない。

【ロボコップ(リメイク版)】 機械>人間=ポンコツ機械

 マーフィの身体は、頭部と肺しか残っていない。風船のようにペコペコ膨らんでは縮む肺の上に、マネキンのように台に乗せられた頭部。それが彼の全てだ。マーフィは、身体のほとんどが機械になった自分を見て、「そんな…ほとんど残っていない!」と絶叫する。さらに「俺は死にたい」と…。極めて人間的な反応だ。機械は決して死にたがらない。

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◆ロボットに対する敗北宣言

 ロボコップ誕生の理由は、決して人間が機械より優れているからではない。本作で、人間は、機械より劣った存在でしかないのだ。それでもなおロボコップが作られたのは、純度100%のロボットでは人々の賛同が得られず、政治的に導入が難しいためである。ロボコップはそうした背景のなか、人々のヒーローとなるべくして誕生した、いわばマスコットである。

 これは、オリジナル版と正反対である。オリジナル版では機械に明確な不具合があったから、それを補うべく、人間と融合したロボットが生み出された。つまり、オリジナルでは、人間は機械に勝っていたのである。オリジナルからリメイク版へのこの変化は、ロボットに対する認識の変化を如実に表していて、非常に面白い。いまや、プロ棋士でさえ、コンピュータ棋士に敗北する(電王戦)。ロボットが人間の職を奪う、という論文も発表された。文学作品をさえ、ロボットが書いてやろうかという時代である。人間は、機械に劣等感を抱きつつある。いったい、人間の領域は、どこに残っているのだろうか。

 もしも、本作にその回答を見いだすのであれば、それは「ど根性」である。マーフィは、ラストシーンで、「ど根性」によって、設定された限界を超える。確かにそれは、機械にはできない芸当だ。「ど根性」は、博士が「何かしら把握できないものが、マーフィの脳に干渉している」と言っていたように、家族への愛とか、復讐心といった、人間的感情の発露である。機械の優位に対して、人間的感情を対置するのは全く新鮮さがないが、新鮮さがない回答を描き続けなければならないくらい、僕たちが機械に対して抱いている劣等感は大きい。機械には勝てないよね。

 何よりも、ロボコップが、自分自身をロボコップだと認識するあのシーン。つまり、マーフィが、鏡に映った自分を見て、「そんな…ほとんど残っていない!」と叫ぶシーン。あのシーンだけで、この映画が撮られた価値があったと思う。一言でいうと、人間だって、機械みたいなものなのである。感情があるとか、愛があるとか、様々な形で威張ろうとしているが、中をパカリと開けてみれば、人間も、生理的機構が複雑化した機械に過ぎない。柔軟に見えて極めて硬直的で、精神的に見えて極めて物質的である。そして、極めて機能的に作られた純正ロボットに比べて、この人間というロボットは、如何にもポンコツである。

 オリジナル版と比較して、爽快感がなくなったとか、物語の背景描写がいまいちという人も結構いて、僕もそれはその通りなのだろうと思うのだけれど、一方で、あの時代ではなく、この時代にある種のリアリティを追究するのであれば、本作のように、煮え切らない態度をとるしかなかったような気がする。

(ジョゼ・パジーリャ監督 2014年 アメリカ)