僕は映画狂、というより、映画を語りたい今日

もしかすると、映画そのものよりも映画館の暗闇のほうが好きかもしれない。

映画『惑星ソラリス』 眠たさと神秘性の間で

アンドレイ・タルコフスキー監督 1972年 旧ソ連

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◆『ソラリス』で学ぶ、役立たずの教訓

1.説明不足は、かろうじて説明過剰よりも良い。

  しかし、説明不足も困りものである。

2.美貌は恐怖に変わることもある。

  美女が理解不能な行動をすると、その表情がとても怖い。

3.愛とは、物質を愛することなのか。

  そうかもしれない、残念ながら。

 

 

睡眠薬的な前半

 圧倒的な説明不足。圧倒的すぎて、ほとんど威厳さえ感じるほどである。ロシア語でボソボソしゃべるから、なおさら置いてきぼりにされている感が募る。タルコフスキー監督は、「親切な説明」というものを、どこかに置き忘れてきたのだろう。例えば、鏡の中とか。

 草原に建っているログハウスのような家の中で、中年男性たちがビデオ観賞会をしている。ソラリスがどうたらこうたら、と言うが、この時点では全く意味が分からない(原作を読んでいればわかるが)。途中で、ビデオに登場している人物が、実はビデオ観賞会に参加している中年男性だということをわかる。

 主人公と思しき人物も、このビデオ観賞会に参加しているが、ビデオに登場している人物とどういうわけか喧嘩になり、その次の瞬間には、ロケットに乗り込み、宇宙の彼方に浮かぶ惑星ソラリスへと発っている。

 ソラリスに着けば、宇宙ステーションは何やら一昔前のコンセプト・ハウスのような陳腐な作りだし、謎の中年男性たちが、うだつのあがらない生活をしている。しかし、実際のところ、彼らはおそらく天才科学者なのであって、海にX線を照射したらどうのこうの、等と意味不明なことを口走っているのである。

 一言で言うと、人智の及ばぬ知的生命体と邂逅する話である。その知的生命体というのは、僕たちがイメージできるような生命体ではなく、ソラリスの海そのものだ。ソラリスの海は、人間の脳に浮かんだイメージを具現化して、物質として提出する。

 主人公の前に現れたのは、自殺した妻の形をした「何か」だ。ソラリスの海は、半端なものは具現化しない。その人間に取って、クリティカルな何かを具現化する。

 妻の形をした「何か」は、全く記憶がなく、自分が何なのかも、全く分かっていない。戸惑う主人公はその「何か」をロケットに閉じ込めて消滅させるが、綾波レイばりに二人目が現れたときには、もう「何か」を愛してしまうのだ。

 

 

◆神秘的な後半

 主人公が妻の形をした「何か」に愛を感じるのとちょうど比例して、「何か」の不気味さは増してくる。液体窒素を飲んで自殺しようとした「何か」が、身体を痙攣させながら蘇生するシーンで、不気味さは頂点に達し、それが宇宙ステーションの背後に広がるはずの、ソラリスの海への恐怖と畏敬の念を呼び起こす。

 何もないはずの空間や、黙っているだけの時間が、すべてソラリスの海に支配されているように感じてくる。何よりも、後半になっていよいよせり出してくる異物感が凄い。謎の小人や、何やら怪しげな影が見える実験室。妻の形をした「何か」が浮かべる微笑と、ドアを引きちぎる怪力。人類は、不気味さを通して、根本的な問いを解きつけられることになる。

 人間と何か、自分とは何か、愛とは、物質を愛することなのだろうか。ソラリスの海に見初められた人類は、その脳が活動しているだけで罪を犯し、罰を受けなければならない。しかし、これはもしかすると生のメタファーではないか。心臓をつかまれているような緊張が、少しずつ感銘に変わってくる。映画は、これほどにまでに巨大な問いに隣接できるのだ。

 結末は、主人公の敗北もとい人類の敗北のように感じた。いや、敗北というよりも、自ら平伏したというべきか。それが本当の敗北である。これがタルコフスキー監督の諦念なのかもしれない。なるほど、ソラリスの海の前に屈した主人公には、ある種の幸福と救いが訪れたのだろう。それはそれでいいのかもしれない。

 しかし、ソラリスの海への恐怖を植え付けられた身としては、幸福と救いを拒否したその先の意志を、その可能性を見たかった。少し落ち込んだ。確かにそういうものかもしれない。きっと僕も同じ穴のムジナだろう。未だに僕は恐怖したままで、しかも、その恐怖さえいずれは忘れてしまうかもしれない。

 

惑星ソラリス [DVD]

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