僕は映画狂、というより、映画を語りたい今日

もしかすると、映画そのものよりも映画館の暗闇のほうが好きかもしれない。

無限を飛び越えるために、有限を掘ればいい。

 泳げない我々を襲ったのは、どうしようもない欲望。すなわち海の向こうのあの島へ渡りたいという欲望でした。

「あの島に行ってみたいんだ」

 誰に言うわけでもなく、我々は我々の欲望を確認するためだけに、何回もそう呟いたのでした。時には、本当にあの島に行ってみたいのか、それともただ単にこの島を抜け出したいだけなのか、などと自問自答を繰り返しました。

「無理だ、我々は泳げない。泳げない者に、海を渡ることは不可能なのだ」 

 誰もがわかっていることを、誰もが何度も繰り返しました。

「あの島に行ってみたいんだ」
「無理だ、我々は泳げない」

 その度に我々は意気消沈して、寄せては返す波を見つめるのでした。どうして我々は泳げないのだろう。どうして泳げるようになっていないのだろう。

「それでは、飛んだらいいじゃないか」

 あるとき、一人の男が言いました。泳げない理由はそれじゃないのか、我々は飛ぶために、泳げないのだ。

 島で一番高い木から飛び降りる者が続発しました。大空をにらみ、手をばたつかせ、若者は次々と高い木から飛び降りていきます。ねえ、あれって飛んでいるの、それとも落ちているの、と問うものもいました。ほとんど落ちている、でも部分的には飛んでいるのかもしれない、少なくとも完全に落ちているわけではない、と論じる者もいました。今はっきりしていることは――絶望的な決意を込めて、ある男が言いました――もし我々が飛べないとしても、今我々は飛ぶしかない、ということだ。我々は飛ばなくてはならない。そうでなくては、もうするべきことが他にない。

 しかし、しばらく経ったのち、高い木から飛び降りて大けがをした男が言いました。

「我々は、飛べない」 

 誰もため息をつきました。

「我々はみな、そのことを知っている。ずっと知っていて、今も知っている。だから飛ぶ他はないのだ」

「いや」と男は力強く言いました。

「我々はみな、飛べないことの意味を知らなかったのだ」

 そして男は地面を掘り始めました。

「海を渡ることはできない。海の上を飛び越えることもできない。しかし、海の下を潜り抜けることはできるかもしれない。あの島は、この島とつながっているのだ。我々がどうしても行きたいあの場所は、この場所とつながっているのだ。つながっている!――そのことを、我々は知らなかったのではないか」

あのピアノ対決の真相(『海の上のピアニスト』の感想③)

 このサイトで、『海の上のピアニスト』における最大の見せ場であるピアノ対決の意味を解説してくれている。文脈上たぶんこういうことなのだろうということくらいは分かっても、引用部分のように言葉にしてくれていると詳細が分かって確信が持てるので有難い。纏めると、

①2Rまでで当事者同士は勝敗をもう知っていた(1900>相手方)。
②しかし自分のキャリアに傷がつくと考えた相手方は、小手先の技で音楽を愚弄。
③音楽を愚弄したことにより、それまで勝負だと思っていなかった1900が激高、相手方を圧倒。

ということなのですね。

 引用部分は①の詳細。

先攻ジェリーで始まるバトルだが、後攻1900の"Silent Night"も終了、2R先攻のジェリーのプレイを経て迎えた後攻1900からの強烈パンチ。近代モードの応用など存在しない当時としては先端のテンション感覚と云えるヴォイシング(和声の構成音)を駆使して自ら作曲したラグ曲を、たった一度のヒアリングで真似されてしまったジェリーは、1900の演奏前にはバーテンからの酌杯を一度は拒否していたものの、演奏が始まると酌を要求するまでに狼狽。

 ところで、引用させて頂いたこのサイトは個人による総合映画レビューサイトとして日本屈指だと思う。掲載している映画レビューの数が1229本(16年2月3日現在)という圧倒的な量に加えて、1本1本の質も高い。いくつかのレビューを読んだが、『おくりびと』は特にすばらしかった。こういうのを淡々と(ご本人は淡々とではないのかもしれませんが)更新する人が存在し、そういうコンテンツに簡単にアクセスできるのがネットの素晴らしいところである。

 映画について書くのも好きだが、他の人が映画について書いた文章を読むのも好きなので、いずれはこのブログに、「優れた映画評ライブラリ」的な機能を持たせられたら、と思っている。


The legend of 1900-piano scenes Duel part 1


The legend of 1900-piano scenes Duel part 2

感想①、②は以下から。

uselesslessons.hatenablog.com uselesslessons.hatenablog.com

 

天才のことは知らないけれど、天才は意外に不便かもしれない(『海の上のピアニスト』の感想②)

 感想①はこちら。uselesslessons.hatenablog.com

  「海の上のピアニスト」について、このHPの感想が面白かった。本当、他の人の感想は面白い。

 J/ 彼は、88個の鍵盤の上で、物語を奏でることによって、完結してしまっているんだね。ただ一度無垢な少女を見て、感動的なピアノ曲を弾いてしまった後に、船を下りてみたくなってしまう。何か完結しない思いが込み上げてきたんだね。「自分のいない所で自分の音楽が聞かれることに耐えられない」ってレコード会社の人から奪ったレコードを少女に渡そうとする。自分の思いが一人歩きすることなく、この少女には伝えられると。

B/ その少女が偶然、「陸から海を眺めて、海の声を聞き、人生の決断した」っていう男の娘だったから、その話しが心に引っかかっていた彼は、「一度陸から海を眺めて海の声を聞いてみたい」と。すなわち人はどうやって自分の人生を決めていくのかっていう問いに対する答えを自分で見つけてみたいと決心するわけ。

  主人公の1900と少女のくだりは昨日のエントリーでは書けなかった。上の引用の通り、1900は少女に出会い、はじめて傍観者としての創造を脱して、好意を抱く他者へ自分の創造力を捧げようとする。具体的に描かれることはないけれど、そうやって他者へとつながった瞬間に、船の上でのみ生きている自分の生き方を相対化するような力が働き、いちど船を降りてみようという気になったのだろう。

 しかし、彼は降りることができない。なぜなら、陸は「神さまが弾くピアノ」だったからだ。彼はその無限の鍵盤の中から「何が正しいのか」を選び取ることができない、と感じている。少女との出会いによって開かれた可能性は、しかし1900の前にはあまりにも広すぎる可能性だったのである。

 彼が降りられなかったのは、臆病だからではなく、彼は可能性の世界を見ることができたからだ、ということなのだろう。天才だけが陸を「神さまが弾くピアノ」だと認識することができ、そうした世界の中で「人間が弾くピアノ」を発見し、今弾くべき鍵盤を知ることができる。換言すれば、天才とは無限に広がる世界の中に有限性を発見し、その有限性の中で正しいものが何なのかを直知できる人間なのではないか。この場合の「正しい」というのは倫理的な意味ではない。科学的な正しさや、審美的な正しさのことである。

 そうなると、意外にも天才は不便だということになるのかもしれない。彼らは天才が故に、いつでも選択しなければならない。凡人にはその選択は見えないし、そもそも選択しなくても、のほほんと生きられるのだ。天才は自由ではない。彼らに与えられた道は、正しい道を選択すること、ただそれだけである。

生は悲しいことに有限だが、だからこそ創造的である(『海の上のピアニスト』の感想)

 船で生まれ、天才ピアニストへと成長し、そして船と共に死んでいった1900(ナインティーンハンドレッド)。船を降りる機会はいくらでもあったはずの彼は、どうして最期まで船を降りなかったのか。この問いの先には、有限性と創造性の意外なつながりが見えてくる。切ないけれど、人間の一生を美しく纏め上げて語った寓話である。スローガン風に言うと「生は悲しいことに有限だが、だからこそ創造的である」。原作の小説と合わせて、とっても良い映画です。

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◆なぜ1900は船を降りなかったのか。

 陸に降りようとした彼が見たものが何だったのか。タラップの上で立ち止まったときのことを1900は次のように述べている(引用は全て原作の小説から)。

ぼくを踏み留まらせたのは、ぼくの目に映ったものではなかった
それはぼくの目に映らなかったもの
わかるかい、友よ? 目に映らなかったもの……探してみたけれど、どうしても見つからなかった。あの果てしなく巨大な町並みの中に、ないものはなかった。ぼくの探しているもの以外はなんでもあった

だけど、境界線だけは、なかったんだ。

  1900の言う境界線とは、文字通り町の境界線でもあるが、象徴的な意味も含まれている。境界線のある/なしは、つまり有限/無限の対立である。1900は無限を拒否し、有限に留まろうとした。それが自分の生きる場所だと信じて。

 鍵盤上で奏でられる音楽も無限、鍵盤は八十八キーだけ。でも、それを弾く人間のほうは無限。こういうのが好きなんだ。これなら安心だ。
 (中略)
何憶何十億というキーがどこまでも続く巨大な鍵盤、これが僕の見たものさ。無限の鍵盤、
無限の鍵盤なら、さて、
そんな鍵盤の上で人間が弾ける音楽なんて、あるもんか。間違った椅子に座っちまったってことさ。そいつは神さまが弾くピアノだよ。
 (中略)
 陸地というのは、ぼくには大きすぎる船、長すぎるたび、美しすぎる女、強すぎる香水。ぼくには弾くことのできない音楽。許してくれ。ぼくは船を降りない。

  陸地で「神さまが弾くピアノ」を下手に弾き続けている自分にも、やはりこの有限/無限の選択は重大であるように感じる。というのも、1900が次のように訊ねるとき、僕はドキドキしながら、こう答えるしかない。「えー、あの、もうすでにバラバラになっています」

 「恐ろしいと思ったことはないか、君たちは?そのことを、その果てしのなさを想うだけで、ただ思うだけで自分がバラバラになっていくという不安に駆られたことはないのかい?」

  無限の世界でバラバラに散らばっていく自分。世界に溶け込んでいく自分たち。それはそれで悪くないと思うこともあるけれど、ふと我にかえって、ひとつの視点から自分の人生を捉えることに必死になったときに、バラバラに散った自分たちが行方が気になりだす。

 そんな状態は決して創造的ではあり得ない。創造性とはつまり、一つに纏まるはずのないものたちを、一つに纏め上げることである。やはり境界線が必要だったのかもしれない。散らす力は世界が与えてくれるが、纏める力は自分で獲得するしかない。

 おーい自分たち、今から纏めるから集まっておいで。そう言っても集まってくれるかどうかは分からない。なんせ、もう僕は船から降りてしまっているのだから。困ったものである。船に戻れない自分は、いったいどうしたら良いのだろうか。

(監督: ジュゼッペ・トルナトーレ 1998年 イタリア)

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ベッキー騒動について。恥を知らぬ人々と自分について。

blogos.com

 知らない間に(僕だけか)、ベッキーの不倫についてものすごい量の情報が行き来している。みんな、すごくヒマなのだ。そして僕も同じようにヒマなので、こんな文を書こうとしている。
 よく論じられている論点については、あまり興味がない。いくつかの記事を読んだけれど、僕の結論は変わらない。以下に結論を羅列しておく。

◇不倫
 不倫は個人の問題である(しかも今はまだ不倫「疑惑」の段階)。芸能界とはいえ、ある一定以上は踏み込んではならないプライベートな領域がある。たとえ過去に不倫で傷つけられた人でも、その領域にずかずか踏み込んで当事者を「不倫したこと」に措いて批判する権利はない。不倫に限らず、人間関係で一度でも傷ついたことがある人なら知っているだろう。人間関係は決して一般論では語れない。百の不倫があれば、百の事情がある。裁判官気取りはやめよう。

◇ビジネス面
 他方で、企業がCM打ち切りなど、ビジネスとして決断を下すのは理解できる。賛同はしないけれど仕方がない。ビジネスとはそういうものだ。

◇プライバシー侵害
 実際はそうなっていないが、今回の件で最も批判されるべきは文春のプライバシー侵害である。不倫よりもこちらのほうが恐ろしい。違法性を立証するのはやや難しいようだが、こういうことについて「大衆が望んでいない」ことを大衆自身が知らしめる必要がある。明日は我が身かもしれない。そのように想像してみよう。

◆ちょっと自分が恥ずかしかった。
 本題は、恥ずかしさについて、である。僕は、今回の騒動についての記事を読んで、少し自分が恥ずかしかったし、ベッキーに対して「ファンだったのに」とか「裏切られた」とか言っている人々を見て、やはり少し恥ずかしかった。下記のように、僕はそれほど熱心なファンではなかったが、しかし彼女に好感を持っていた一人であり、今回の騒動で「あのベッキーが?」と反応してしまったうちの一人である。
 ここ10年程はテレビを全く見ないのだが、テレビを見ていた時期には、彼女の明るい性格に好感を持っていた。彼女はポジティブを絵にかいたような人で、いつでも前向きで、どんなフリにも空気を乱すことなく優れたリアクションを取ることができる、稀有な才能の持ち主だった、と記憶している。この騒動の記事で触れられていたベッキーのキャラについても似たようなことが書かれているので、昔とあまり変わっていないのだろう。
 明るさ、というのが、当時の僕には魅力だった。自分がそれほど明るくないことにも、明るく振舞おうとしてもそうできないことにもコンプレックスを持っていたし、場合によっては人に明るく振舞うことを要求して、傷つけたりしていた。
 しかし、数年経った今、少し大人になって、人間関係の複雑さと理不尽さを見聞きし、自分の弱さや臆病をある程度認められるようになった今、このように問いたい。いつも明るくて前向き? そんな人間、存在できますか、と。
 そんな人間、いませんよ。それを考えもしなかったあの頃の自分が少し恥ずかしいし、今まさに「ファンだったのに」とか「裏切られた」とか被害者面をして叫んでいる人たちを見ても、同種の恥ずかしさを覚える。どれだけ人間を知らないのだろうか、と。ショックを受けるのは分かるが、不倫くらいで「裏切られた」と青筋立てて叫ぶくらいなら、最初から2次元のフィクショナルな人物を愛した方がいいのではないか。
 今回の騒動で、ベッキーについて改めて知ったこと。それは要するに「ベッキーも僕のよく知っている人間だった」ということ。この一点のみである。ベッキー川谷絵音のLINEのやり取りが本物だとしたら、ベッキーはプライベートな場面でも明るく振舞っている。それを見て、なんだか悲しかった。明るくなくてもいいのにね。

3Dであることなんか、映画にとっては大したことじゃない、という話。

  『アバター』では、どんな映画よりも涙を流した。目がものすごく痛い映画だった。3D映画を一気に標準化させたこの映画では、作り手の方も気合いが入りすぎて、3D効果の調整を誤ったのではないか。映画館の隣に眼科がいるのではないかと思ったのははじめてのことだった。内容は兎も角として、目が弱い人にとっては辛い映画だった。

 そういう恨み節もあってか、3D映画にはもろ手を上げて賛同できない。3Dは確かに面白い。先日USJに行ったときも感銘を受けた。ハリーポッタースパイダーマンのアトラクションでは、単なる奥行き感覚ではなく、上昇や下降、目の前の対象物に対する反射的な運動など、3Dを極めるとこんなことができるのだ、と思った。

 3Dの極点は、マトリックスの世界である。脳に電極を埋め込んで、疑似体験をさせる。3Dが究極的な疑似体験へとひた進んでいるのは確かだと思う。最近出てきた4D映画は、奥行き感覚に加えて、嗅覚や触覚に訴える仕掛けがあるらしい。草原に出たら、草っぽいあの匂いがしたり、雨が降っているシーンなら、蒸気が吹き付けられたりするのだろう。

 3Dは、映画の醍醐味である疑似体験を強化する。それはそれで素晴らしいのだけれど、そうした強化によって失われていくかもしれないものも気になる。映画の面白さは、疑似体験だけではない。というか、疑似体験はあくまでも二次的なものではないか、と思う。

 映像だけでなく絵画も写真も小説もそうなのだが、現実を忠実に再現することが芸術の役割ではないと思う。むしろ逆に、現実世界の4D(空間の3次元+時間)の次元を下げる過程にこそ、芸術の根本的な価値があるのではないか。例えばピカソは2次元であるはずの絵画に3次元ないし4次元(3次元+運動)を閉じ込めてキュビズムを開始した。小説は時間芸術、と呼ばれる。並列的な世界を、一直線の記述(人は文章を前から後ろへと読むしかない)へと変換して提示することによって、現実に対するもうひとつの視点を確立することができる。

 だから映画も現実を疑似体験させることばかりに躍起になっても仕方がないような気がする(そういう映画もあってもいいけれど)。結局のところ大きな感銘を受けるのは、現実からどういう経路を通ってその映画がその映画になったのか、に関することであって、3Dはその目的に奉仕するからこそ意味がある。ひとことで言ってしまえば、映画がアトラクション化するのは避けて欲しい。即効性がある面白さももちろん大切だけれど、じわじわと身体に沁み込んでくるのが映画の本道であると思う。

インドはいつでも想像の斜め上を行く。そんな映画。(映画『ロボット』の感想)

 分かっている。分かっているのだ。インドはいつだって、我々の想像の斜め上を行く


走るバイクの上で「人間ピラミッド」、インド共和国記念日のパレード India marks Republic Day with camels and stunt-riders

 2分26秒以降のバイク上の「人間ピラミッド」については、どう反応していいのか分からない。バイクの概念から全く違っているのではないか。この場合のバイクは、タンデムシート上で繰り広げられる恋模様とも関係ないし、「盗んだバイクで走り出す」ような青春とも無縁である。バイクとは何か。それは「その上でピラミッドを組むべき何か」であり、それ以上でもそれ以下でもない。

 僕たちは自分たちが思っているよりも偏狭な地平で満足しているのではないか。前提を廃すれば、実は思いもよらぬ景色が広がっているのかもしれない。

 それを映画上で知らしめてくれたのは、やはりインド映画の「ロボット」である。詳しい説明は不要だろう。いくつかの画像から醸し出される圧倒的な違和感を受けとめよ。嗚呼、発想の自由とは何なのだろうか。

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映画『ロボット』予告編