僕は映画狂、というより、映画を語りたい今日

もしかすると、映画そのものよりも映画館の暗闇のほうが好きかもしれない。

【バディントン】「クマさん」であることの功徳【感想】

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 「クマさん」とは何なのだろうか、と映画「バディントン」を観ながら考えていた。「クマさん」と熊は違う。熊は自然界でシャケを掬っている猛獣で、「クマさん」とは想像上の生き物である。「クマさん」はシャケなんて魚臭いものは食べない。食べるのはハチミツやらマーマレードやら、とにかく「クマさん」的なものである。

 「クマさん」を映画に登場させる場合、以上のような「クマさん」観に対して、どんな新鮮味を導入するのかが肝となる。映画「テッド」では、「クマさん」はアルコール中毒でドラッグ三昧の中年であった。そして本作「バディントン」では、クマさんは紳士で、もしかすると人間以上に素直で実直で、寂しがりやなのである。公式サイトの惹句はこの通り。

「家を探しにロンドンにやってきたのは、紳士すぎるクマだった」

 本題はここからである。映画は子供向けでありながら、わりにと本格的に楽しめるものになっていたが、僕が途中で考えていたのは映画の出来の良さではなくて、「クマさん」であることの功徳である。「クマさん」であることは、間違いなくハッピーなことなのだ。それは、「クマさん」を「おっさん」に変換すればわかる。

「家を探しにロンドンにやってきたのは、紳士すぎるおっさんだった」

 もうこれはファミリー映画にならない。もっともマシな場合でも、おっさんが詐欺や強盗などに巻き込まれるのは当然だし、ひょっとすると国際的なシンジケートか何かの壮大な計画の首謀者として濡れ衣を着せられて、帽子裏に縫い付けられているノックリストが入ったICチップを、暗殺者集団・CIA・インターポール・KGBあたりを敵に回して守ることになるかもしれない。かつての恋人か何かを守るために。

 「クマさん」の場合は良質なファミリー映画、「おっさん」の場合は謀略渦巻く国際犯罪サスペンス。この違いをみれば、火を見るよりも明らかだろう。「クマさん」であることは素晴らしいことだ。それは「おっさん」である際に降りかかるであろう厄災を振り払えるだけでなく、気の許せる友人や温かい家族が手に入るパスポートなのである。そういうことを、「おっさん」である僕は考えながら、映画「バディントン」を観ていた。ああ、僕は「クマさん」になりたい。 

【オデッセイ】2億キロメートルの断絶、人とつながるということ【感想】

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 一言でいうと、火星版ロビンソン・クルーソーである。サバイバル劇を演じるのはマッド・デイモンで、彼は不慮の事故によって火星に取り残される。確かマッド・デイモンは映画『インターステラー』でも取り残されていた。よく取り残される男である。ここから彼のサバイバル劇がはじまる。あり合わせの材料と道具から食料を確保し、水を生成しようとするその姿は、まさにロビンソン・クルーソーであり、観客は彼の「生活の中の実験」のひとつひとつに共感し、その成功を喜ぶことになる。火星でイモを育てることができれば、そりゃあ「わっほー」と叫びたくなるよ。サバイバル劇は、それだけでエンターテイメントである。

 もちろん、ロビンソン・クルーソーそのままではない。舞台が無人島から火星に変わったことは、当たり前だが小さくない意味を持つ。ロビンソン・クルーソーと比してもなお、彼は圧倒的に孤独である。お空に人工衛星が浮かび、宇宙ステーションで人間が生活する時代になっても、宇宙は孤独と死のメタファーなのだ。

 彼はひとりでビデオカメラに語り掛ける。目的は、自分が生き残れなかった際に備えて記録を残すためだが、語り掛けることで彼は正気を保っているようにも思える。言葉の通じない外国で孤独に耐えきれないとき、つぶやくといいらしい。何てことないティップスだが、声が持つ他者性みたいなものを暗示している。孤独とは他者がいなくなることであり、おそらくその結果、自分の輪郭がなくなることなのだろう。

 この映画の美点のひとつは、マッド・デイモンの挫けぬ勇気である。孤独に押しつぶされそうになっている人は共感するに違いない。どんなに孤独でも、火星に取り残されるよりは幾分かマシでしょう。マッド・デイモンは努めて明るかった。事実を踏まえ、絶望よりも希望を見ようとしていた。誰のために?ーーもちろん自分のために、である。その姿を見ていると、まず僕たちも自分のために明るくあろうと思えるのではないか。

 マッド・デイモンが地球との交信に成功するシーンは最高である。ラストの帰還劇よりも、僕はこちらのほうがより好きだ。昔は知っていたのかもしれないが、今ももう忘れている。つながりすぎている、あるいはつながる力が複雑になりすぎていて、わからなくなってしまっているのかもしれない。本来、つながるというのは、触れるということだったのだ。もっと正確に言えば、つながりというのは、ある種の断絶を前提としている。断絶しているはずの両者が、かろうじて触れ合う。それがつながるということなのだ。2億キロ離れた地球との交信は、触れていないのに触れている感じがした。つながるという体験の原型のようなシーンだった。

 全体として、非常に単純な映画である。トリックで観客を欺いてやろうという魂胆はまるでなく、次の展開もフラグ通りに事がすすんでいく。そういう意味で安心してみられる映画であり、安心できるからこそ勇気づけられるタイプの映画である。 

 【宇宙=孤独の映画を2つ(過去記事より)】 

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【シン・ゴジラ】ゴジラさんが来たので、何かを壊して何かをはじめる。【感想】(劇場公開中)

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 もう僕は、シン・ゴジラになりたい。なってやりたい。現実ではなく虚構の方へ。弱者集合ではなく究極生物の方へ。嫉妬するほどのスペック。口からビーム、背中でビーム、シッポでビーム。僕はビールを今日もノーム。ヒールのフリして帰るホーム。

 「このクニはまだやれると感じるよ」

 大震災を経験し、原発事故のワルツを踊っている我々の切実な部分を衝いてくる。会議でのモタモタした意思決定はめちゃくちゃイラつくが、ヒーローに頼らない日本の良さ/悪さという意味で、受け入れる価値があるのではないかと思ってしまう。ゴジラによって知る日本の良さ。土下座外交、働くクルマ、在来線爆弾。観客に理解させる気がない法律用語の数々が重みとなって、ゴジラのリアリティを支えている。

 ゴジラの爬虫類のような眼には、圧倒的な絶望感がある。たしかに、あいつとは絶対にコミュニケーションはとれませんよ。ゴジラは無表情でひたすら東京に向かってくるのみである。軍事力を持ってしか対応できない生物は果たして生物なのだろうか、なんていう甘い疑問はゴジラさんが破壊した東京の惨状を見れば自然に引っ込んでいく。疑問はあるだろう、しかし今は戦うときだ。あいつを殺さねばならぬ。それが日本に突き付けられた絶望である。

 少し前のアメリカ版ゴジラには、渡辺謙という代弁者がいた。合っているかどうかはともかくとして彼はゴジラの意志を語り、ゴジラにある種の信頼を置いている。実際にゴジラはその信頼にある意味で応える。しかしその点、シン・ゴジラの方は理不尽を極めている。やつとは、コミュニカティブな関係はまったく築けない。シン・ゴジラはなぜわざわざ東京に来るのか。どうして鳥取のド田舎ではなく(鳥取の方すみません)、北方領土でもなく(それはそれでややこしいが)、我が国の首都、東京に来るのか。そして日本に立ち直れないほどの、そして我武者羅に立ちあがることを強制するほどのダメージを与えてくるのか。

 奇妙な答え方だが、それはおそらく、我々がそう望んでいるからだろう。シン・ゴジラがもしも「エンターテイメント的に面白い」というレベルを超えて、何かを心に植え付けるものがあるとしたら、それはゴジラが理不尽なまでに東京を破壊するからだ。そして、それを我々が望んでいたからだ。ゆるやかな衰退に対するゆるやかな抵抗、そういう中途半端を吹き飛ばしてくれる圧倒的な危機感そのものをどこかで望んでいるからだ。

 映画を観た後に、猛烈に何かを変えたくなる映画は少ない。シン・ゴジラを観たあと、僕は何かを壊して何かをゼロからはじめたくなった。震災の経験が直接的な痛みから霧のような記憶へと変わりつつあるこのタイミングで、個人のなかに何か新しいものが芽生えるとしたら、もう一度、個人がゴジラ的な何かと向き合った瞬間だろうと思う。

【アノマリサ】愛が失われる瞬間を描いたストップモーション・アニメ【感想】

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 奇妙なストップモーション・アニメ。すべて人形を動かして1コマ1コマが撮影されている。そんな膨大な労力(撮影には2年間かかったらしい)を、くたびれた傲慢な中年の日常を描くのに使っている。ここですでに疑問ははじまっている。どうして彼らは人形でなくてはならなかったのか。

 開始5分以内で何かがおかしいことに気付く。故障かと思って僕はイヤホンを一度ぬいた。主人公以外の声が全員いっしょなのである。そしてよく見てみると、主人公以外の顔も全員一緒である。この一点にこそ、製作者が膨大な労力をかける道を選んだ理由がある。

 ストップモーションの出来の良さに対する感動が、途中から気持ち悪さに変わっていく。全員がおなじ顔の世界をはじめて観ることになる。何だろうかこれは。この気持ち悪さは。世界が狭まっていくような感覚、どこにも出口がないような息苦しさ、閉所恐怖あるいは「できない」という不可能性だけが身体に迫って来る世界。

 主人公の中年男性が気の毒といえるのかどうか、よくわからない。「昔と何かが違っている」と彼はつぶやく。鈍感な男である。彼に起こっているのは、机の小物の配置が朝と違っている、なんて可愛らしいことではない、全員の顔が同じに見える、ってそりゃあ世界破滅級の出来事ですよ。でも主人公は「何かが違う」といらだっている。

 愛が不可能になっている点がおそらく重要だろう。愛が不可能になった故に全員が同じ顔に見えているのか、あるいは全員が同じ顔だから愛が不可能になっているのか、順番はどうでもいい。

 愛とは排他的な選択である。彼にはその排他的な選択が不可能になっている。唯一、彼が愛する女性が登場する。彼女の顔はほかの人間と違い、彼女の声はほかの誰とも違う。「声が美しい」と彼は思う。何度も歌ってくれ、とせがむ。美男でも美女でもない二人が交流するこの場面は、しかし、息をのむほど美しい。のっぺりした世界から帰還し、彼は愛を発見するのである。

 しかしそれも長くは続かない。ひょんなことから彼は少しずつ彼女への愛を失っていく。愛が消滅する瞬間の描写として異様なリアリティがあるこのシーンは、本作のハイライトの一つだろう。悲しいというよりも、こわい。感覚のすべてを遮断されていく予感がしずかに観ている側を打ちのめす。愛がある世界から愛がない世界へ、つまり意味がある世界からどんな意味のない世界へ、彼は戻っていくのである。少しずつ彼女の顔が、ほかの者たちと同じ顔になっていく。いまや他のものと全く同じ顔になった彼女を、もう二度と彼は愛することはない。

 主人公が正気を失うのも当然の帰結だろう。講演会の途中で彼は錯乱して意味のわからないことを叫ぶ。別にこの展開に違和感はない。最後の締め方にも納得がいく。ラストシーンで彼が叫ぶセリフが印象的である。「君たちはいったい誰なんだ」。彼が識別できるのは、なぜかアダルト玩具屋に売っていた日本人形だけである。日本人形は「ももたろう」を歌う。彼は涙する、人形だけしかいなくなってしまった世界に。

 しかし、観ているこちらも「正気って何なのだろう」と考え込んでしまう映画である。登場する人形たちの動きは、ドアを開けるなどのちょっとした所作や、排尿、性交シーンまで巧緻を極める。人形たちは人間そのものである。しかし、人間そっくりにつくられた人形たちが動く日常は、落ち込んでしまうほど滑稽なのだ。人形たちは家族や仕事、愛とかに銘々が必死になっているけれど、距離をとった視点から見ると、そこには魂もロマンも何もない。物質の固まりがたんに右往左往しているだけの世界である。人形ではないはずの人間である僕たちの世界も、薄皮一枚はいだだけで、すぐさまのっぺりとした意味のない世界になるに違いない。今の世界は、非常にデリケートなバランスの上に辛うじて成立しているのである。 

アノマリサ (字幕版)

アノマリサ (字幕版)

 

 

【ペット】とりあえず楽しみ、そして次に楽しむ。それだけの映画【感想】(劇場公開中)

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 取り立てて何てことはない映画なのだけれど、それだけにCGアニメの制作技術の進歩がよくわかる。これくらいのものなら力まずとも出せますよ、という感じ。時間も短く、ほどよくカタルシスもあり、もちろんユーモア方面も抑えている。かなり大雑把に言うと、トイストーリーのペット版。人間のいないところでペットが仲間奪還を試みる。

 何よりもアクションシーンが素晴らしい。ペットたちは美しいCGニューヨークの地上や地下を縦横無尽に飛び回る。それをストレスなく見せるのは意外に難しいはずだが、わずかな違和感もない。そのときどきの危機に手に汗握り、無事に打開できたときに安堵し、そして次なる試練に驚く。すべて制作者の意図通りで、彼らは笑いが止まらないだろう。どうもすみませんね、手のひらで踊ってしかいなくて。ペットはとにかく、良くも悪くも楽しむほかにはない映画である。

 実を言うと、僕の目当てはオマケのミニオンズのほうだった。ミニオンズがミキサーを買うために老人ホームでアルバイトする、というもの。こちらはこちらで、ミニオンズのかわいさを楽しむ以外の目的は全く見当たらない。深さも高さも全く目指していない。ペットもミニオンズも、そういう意味では潔い映画である。

「人間は皆死ぬ」「で?」――「で?」の次に来るもの

 明日死ぬかもしれない。その事実をどのように受け止めるのか。

 中学生や高校生の頃、その事実に対して、深刻さを以て対峙する他なかった。死にたくない。でも死ぬんだ。何なのだろうか、この理不尽は…。

 しかし、20代を人並みにやり過ごし、30歳を超えた今、深刻さはどこかに消え去った。日常の些事に心をくだいている間は、深刻さが付け入る隙なんてない。死? そんなん知らへんよ。それよりも明日のプレゼン資料だ。徹夜だぜ。

 徹夜のパワーポイント作業。んー、アニメーションが面倒である。そこに訪れるのは、パリンコと虚無である。深刻さの次にやって来るのは、パリンコと虚無なのである。深夜、パリパリとパリンコを食べながら考える。なるほど人間はみな死ぬ。それは分かった。で、どうすればいいんだ。

「で、どうすればいいんだ?」

 この「で」が、僕の脳を一瞬にしてフリーズさせる。「で?」。そこから展開されることなんて、何一つないのだ。その先には何もない虚無。フリーズから覚めるために、もう一度パワーポイントに戻る必要がある。アニメーションは面倒だが、無駄にしか思えないアニメーションをカチカチ鳴らしてつけていく他、僕に進むべき道はないのだ。果たして、このカチカチは、「で?」に答える作業となってくれるだろうか。

「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」

ゴーギャンは絵画を通して問うた。パリンコを食べながら、すげーなー、と思う。結局、そういうことになるのではないか。大変失礼なことを申し上げるが、今僕がカチカチ鳴らすことで何とかしようとしていること、それをゴーギャンは絵を描くことで何とかしようとしたのではないか。違ったのは、僕が圧倒的に無能だったこと。そして僕の手元にはパリンコがあったこと。今、僕の唯一の救いは、パリンコである。ぱりぱりしながら思う。結局、そういうことではないか。「で?」の次に来るもの――それは何かを描くことでしかないのでないか。

100記事目の前に

 次の記事で100記事目になるので、幾つか反省点を残しておきたい

 

①ブログを書くときの敵は、羞恥心、ただそれだけ。

 普段の文章を書くスピードなら、2015年中くらいには100記事に軽く到達すると思っていたけれど、結果的にはここまで引っ張った。敵は羞恥心、ただそれだけ。ブログを書くのは初めてではないけれど、日常生活を記すもの以外(つまり明確にある集団に向かって書く文章)ははじめてだった。日常生活なら「アホやと思われて何ぼ」という処世訓を適用できるのだが、テーマ別になるとどうしても「かしこぶりたい」癖が抜けない。アホか、僕。賢く見える文章に憧れている時間が長すぎたのかもしれない。

 

②意外に極論が難しい。

 これは自分の見込みの甘さ。ブログをはじめた当初は、映画に関して極論を展開することを予定していたのだけれど、知れば知るほど極論というのは難しい。ツイッターくらいの文字数なら極論も繰り返すことができるかもしれないけれど、ある程度まとまった分量を書くとなれば、どうしても中庸に落ち着くことが多い。その結果、他の映画ブログと同じようなことを書いていることが多かった。

 

③いくつかの実験

・1つの映画についてあれこれ書く。

 例えば「スターウォーズ」であれば、20記事くらい書いた(面倒なのでリンクは張らない)。このスタイルは自分に合っていると思う。

・「酷評なし」という制約

 何の問題にもならなかった。こういう制約がなくても、自分はほとんど酷評しないような気がする。しかし、これでは制約の意味がないような気もする。実際には、酷評に近い感想もあるけれど、悪口を言っている相手が必ずしも嫌いではないように、悪口を言える映画は必ずしも嫌いではない。そういうトーンで書ければ、と思う。

・世間を賑わせているニュースについて書く。

 ベッキーの不倫騒動について書いてみた。これは明確に失敗。「不倫くらいでガタガタ言うな、つまらない」と思ったのは事実だが、書いた快感もなければ、書いた内容も次の日には不満だった。政治的な内容は(日常では書くことも多いけれど)意図的に外していた。これは正解だったと思う。異論をぶつけ合うのなら、現実では重要ではないテーマの方がいい。例えば映画とか、例えば小説とか。

 

④100記事目以降

 タイトルを変えて、スタイルを(ある程度)統一しようと思う。